今日は朝から曇りで気温は下がった。町田のダリア園を見に行った。ちょうど見頃でいろいろな種類のダリアが咲いていた。
ダリアはキク科だということで、あさっては重陽、菊の節句。
今年のノーベル経済学賞の三人の著書は日本では翻訳されていない。二〇一三年に翻訳されたヨシュア・アングリストさんの『「ほとんど無害」な計量経済学』は絶版になっていて法外な値段がついていた。
計量経済学が今回のキーワードなのか。アベノミクスの金融緩和が何でインフレにつながらなかったか、こういう方法は何か役に立たないのかな。
素人考えだが、経済は機械的に動くのではなく国民の期待で動いているから、国民の大多数がインフレを望まなければ、理論的にインフレが起こる状況であっても国民の方でそれを回避する行動をとる。
最低賃金や移民の影響も、その国の国民の期待が反映されるのではないか。雇用が減っては困るという人が多ければ、国民の方でそれを回避する手立てをいろいろと講じる。それを計量化できれば、多分より正確な分析が可能になるのだろう。
コロナ対策でも、単純にどこの街にどれくらいの人出があったかではなく、同じように人がたくさんいても、一人一人の感染対策の意識が高ければ、感染者を減らすことができる。同じ人数でもノーマスクで大声で叫んで抱き合う群衆と、マスクをして何とか距離を維持しながら努めて小声で話す群衆では、統計的に同じ人出があっても感染リスクは大きく異なる。
あと、元禄七年夏の「世は旅に」の巻を鈴呂屋書庫にアップしたのでよろしく。
それでは、「八人や」の巻を読み終わったところで、いよいよ『俳諧次韻』に進むとしよう。
延宝九年は芭蕉にとって一つの節目の年になる。
この年の一月に京でかつての盟友である信徳、春澄らが『七百五十韻』を出版した。七百五十というのが何とも半端な数で、あと二百五十句足せば千句になるというので、芭蕉、其角、揚水、才丸の四人で二百五十韻を追加し、秋には『俳諧次韻』として出版される。
越人は後に『不猫蛇』の中で、
「汝等は当流開基の次韻といふ、二百五十韻の集はしらぬか。信徳が七百五十韻までは、色々ありても古風なり。其次韻二百五十韻よりが当流ぞ。ここをしらで新古のわかちはしれぬぞ。」
と言っているように、この集が従来の談林の風から脱却し、芭蕉独自の風を確立した節目となっている。
芭蕉の風体は何度も変化していて、その変化も少なからず連続性を持っているから、どこ時点が蕉風の確立かなんていうことは、一概に言えるものではない。
たとえば「古池」の句が蕉風確立だと言っても、貞享三年春に『蛙合』や『春の日』が発表された時点なのか、それとも支考の言う天和の終わり頃のことなのかということになると、一概に確定できない。
『蛙合』が蕉風確立ならば『野ざらし紀行』や『冬の日』は蕉風ではないのか、となるとやはりそれは違うだろう。
天和の終わりだとすると、いわゆる天和調はまだ蕉風ではなかったということになる。この頃の、
芭蕉野分して盥に雨を聞く夜かな 芭蕉
枯枝に烏のとまりたるや秋の暮 同
氷苦く偃鼠が喉をうるほせり 同
艪の声波ヲ打って腸凍る夜や涙 同
などの句は蕉風には含まれないのかということになる。
今日ではこれを天和調・虚栗調と呼んで、天和調から徐々に脱却する『野ざらし紀行』の旅の頃からが「蕉風確立期」と呼ばれている。
『俳諧次韻』はその一つ前の段階で、談林調から天和調への節目になる。談林調が宗因によって作られた風だったのに対し、天和調が芭蕉が中心となって開いた新風だとすれば、やはり蕉風がここから始まったと言っても間違いではない。
信徳等の『七百五十韻』は、それまでの『桃青三百韻 附両吟二百韻』や延宝七年の「送留別三吟百韻二巻興行」の延長線上にある。
『七百五十韻』の最後の巻「八人や」の五十韻を見ると、七句目の月の定座で、
青物使あけぼのの鴈
久堅の中間男影出で 常之
(久堅の中間男影出で青物使あけぼのの鴈)
と敢えて「月」という語を抜いて、中間=中元(七月十五日)の連想で、言葉の裏に「久堅の中元の月影出て」の句を込めている。
十一句目の、
悟たぶんの世にもすむかな
花山や大名隠居いまぞかり 信徳
(花山や大名隠居いまぞかり悟たぶんの世にもすむかな)
の「花山」は「花山法皇」のことだが花の山で隠居しているとも取れる。ただ、ここでは非正花で無季の扱いにしている。
ただ、こういう式目上の面白さを別にするならば、鴈と野菜の鍋に月が出て、悟ったふりして世に居座る大名隠居だと、趣向そのものは従来の談林調の延長になる。
二十句目の、
娘手のべざいてん様えびす様
徳屋あぐり八才 春澄
(娘手のべざいてん様えびす様徳屋あぐり八才)
にしても「徳川大奥」では恐れ多いというので、中二文字を抜いて「徳屋(奥)」としている。綱吉の大奥に入ったと噂される大戸阿久里のネタだ。ただ、こうした伏字も既に芭蕉・杉風の両吟で、杉風がやっている。
それなら『俳諧次韻』は何が新しいのか、それをこれから見ていくことにしよう。
まず、「八人や」の五十韻の挙句に付けた、この句から始まる。
又かさねての春もあるべく
鷺の足雉脛長く継添て 桃青
(鷺の足雉脛長く継添て又かさねての春もあるべく)
これは五十韻の挙句に付けた五十一句目である。とはいえ、月花の定座の位置は通常の五十韻の形式に従い八句目までを初表とし、初裏、二表、二裏が十四句ずつになっていて、三の表裏、名残の表裏という形にはなっていない。発句のない変則的な五十韻になる。
長い鷺の足にさらに雉のふくらはぎを継ぎ添えて、また重ねての春もあるべく、と付く。
これに其角が「脇」として五十二句目を付ける。
鷺の足雉脛長く継添て
這_句以荘-子をもって可見矣 其角
(鷺の足雉脛長く継添て這_句以荘-子をもって可見矣)
前句に対し注釈のように付ける。「このくそうじをもってみつべし」と読む。
『荘子』「駢拇編」の、
「彼至正者不失其性命之情、故合者不爲駢、而枝者不爲跂、長者不爲有餘、短者不爲不足。是故鳧脛雖短、續之則憂、鶴脛雖長、斷之則悲。故性長非所斷、性短非所續、無所去憂也。」
(かの本当の正しさをわかっている者は生まれながらに運命付けられたありのままの姿を見失うことがない。そのため、指がくっついて四本になっていても指が異常に少ないとは思わないし、指が六本あっても異常に多いとは思わない。長くても無駄と思わず、短くても足りないとは思わない。つまりは、鴨の足が短いからといって、これを継ぎ足せば困るだろうし、鶴の足が長いからといって、これを短く切ったら悲しい。つまり、もとから長いものは切るべきでないし、もとから短いものを継ぎ足す必要はなく、悩むようなことは何もない。)
まあ、この注釈自体が余計なもので、鷺の足に雉脛を継ぎ足すようなものだという所で落ちになる。
天和調というのは、漢文や古典などの素養のある人にしかわからないようなマニアックなものになっていったようなイメージもあるが、もしそうした高度な読者が相手なら、わざわざこんな解説を入れるまでもなく、言わずもがなだっただろう。
むしろ天和調の性質というのが、この其角の付け句に表れているのかもしれない。むしろ、延宝期に飛躍的に発達した出版産業によって、それまでごく一部の上層階級のものだった古典が、庶民の手の届くところで読めるようになったという背景があって、そうした古典初心者に向けて発信されたのが天和調だったのではなかったかと思う。
そして、元禄期になり、庶民が普通に古典に親しむようになると、こうした言わずもがなの出典よりもオリジナリティーを求める傾向が強くなり、「軽み」や「匂い付け」の風が生れたと考えたほうがいいのかもしれない。
こうした漢詩調は芭蕉の現実感覚よりも、奇抜な空想能力がより生かされることになる。八十句目(三十句目)は、
天帝に目安を書て聞へあげ
桂を掘て星種を植 桃青
(天帝に目安を書て聞へあげ桂を掘て星種を植)
そうした一つの例であろう。
前句の「目安」は訴状のことで、この時代はまだ「目安箱」はない。目安箱の設置は、一七二一年、八代将軍吉宗の時代になる。
中国の伝説では、月には高さ五百丈(約五百メートル)もの桂の木が生えているという。この桂の茂り具合によって月の満ち欠けが起るとされ、そこから月自体のことを桂と言うこともあった。
その桂の木を掘ってしまえば、当然月はなくなる。そこに星の草を植える。月は無くなり星月夜となる。一体天帝にどんな訴えをしたのか。
八十八句目(三十八句目)、
向後にて行徳寺の晩鐘を
枸杞に初音の魂鳥の魄 桃青
(向後にて行徳寺の晩鐘を枸杞に初音の魂鳥の魄)
これから後は行徳寺の晩鐘を聞きながら過ごすという前句に、枸杞(クコ)に鳴くホトトギスを聞くというだけだと、これまでの談林調であろう。そこに漢文学趣味で「魂鳥の魄」とする。
クコの実はβカロチンやビタミンAが豊富に含まれている上、赤い色素であるベタインに強い疲労回復効果があるといわれている。そのため、古くから腎臓、肺などに良く、精力をつけ、老化を防ぐと言われてきた。
そのため、クコは仙人の食べ物とされ、「地仙」「仙人杖」「西王母杖」「仙苗」などの別名がある。実だけでなく、芽や葉も食用とされた。
お寺に枸杞の縁は、黄庭堅の「顯聖寺庭枸杞」によるものだろうか。
顯聖寺庭枸杞
仙苗壽日月 彿界承露雨
誰爲萬年計 乞此一抔土
扶疏上翠蓋 磊落綴丹乳
去家尚不食 齣家何用許
政恐落人間 采剝四時苦
養成九節杖 持獻西王母
仙人の苗は長い月日を寿命とするのだが、なぜか仏のいるところでも雨露を受けている。
一体誰が一万年も生きてやろうとして、この一すくいの土を与えたのだろう。
枝葉は茂り翠の傘をさし、わさわさと赤いおっぱいをつらならせる。
家を出るものは枸杞を食べてあまりに精力をつけてはいけないというくらいで、ましてや出家するものにどうして食うことが許されよう。
この木にとって恐いのは俗世に落ちて、芽も葉も実も皆食われて四季を通じて苦しめられることだ。
ここで育てられればそんな憂いもなく仙人の持つ九節の杖となり、西王母に献じるようなものにもなるだろう。
枸杞はお寺に植えれば、不老長寿の薬として食われることがなく、悠々と育つことができる。
魂鳥はホトトギスの別名で、ホトトギスが夜鳴くことから、その声を冥界から響いてくるような、魂の叫びともいえる切なさを感じさせる。
前句を行徳寺での隠棲とし、不老不死の枸杞の木に死者の魂の時鳥の声を聴く、とする。何やら生死に関する奥深いものを感じさせるが、別に何か説教しているのではなく、あくまでネタだ。
九十一句目(四十一句目)は、
雨をくねるか夏風がつま
夕暮は息に烟を吐思ひ 桃青
(夕暮は息に烟を吐思ひ雨をくねるか夏風がつま)
和歌では煙はしばしば身も焦がれる思いの象徴として用いられる。
靡かじな海人の藻塩火焚きそめて
煙は空にくゆりわぶとも
藤原定家(新古今集)
風吹けば室の八島の夕煙
こころの空に立ちにけるかな
藤原惟成(新古今集)
など多数の歌がある。また、煙は哀傷歌にもしばしば詠まれる。
かといって、煙の空に消えてでは連歌の趣向で俳諧にはならない。そこで口から煙を吐くとする、ってそれじゃタバコだ、と落ちになる。
芭蕉の句ではないが、九十八句目(四十八句目)、
脱置し小袖よ何と物いはぬ
朝タ枕に。とどめ。をどろく 才丸
(脱置し小袖よ何と物いはぬ朝タ枕に。とどめ。をどろく)
『源氏物語』の「空蝉」か。空蝉の場合は小袿(こうちぎ)だが。
光源氏も若い頃は闇雲にレイプを試みては失敗し、残された下着の匂いを嗅ぐ最低の男だった。
「とどめ」は留伽羅(とめきゃら)のことらしい。
文体は芝居の脚本か何かか。前句まえくを芝居のセリフとし、付け句をト書きとする。
これは五十一句目(脇)の其角の注釈付けの延長と言えよう。
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