2021年10月24日日曜日

 『古浄瑠璃 説教集』の「ほり江絵巻双紙」を読んだ。浄瑠璃姫と言い、女性の悲劇を描くのは、琵琶法師などの物語を聞く人は女性が多かったからなんだろうな。『源氏物語』でも物語に熱中する女を源氏の君が揶揄しているし。
 浄瑠璃姫もほり江も、ともに七五調を基調としている。こういうのは叙事詩と言っても良いのだろう。
 日本で「詩」というと漢詩のことで、明治以降西洋のポエムが入ってきてその訳語として「詩」が選ばれた。正岡子規の『詩歌の起源及び変遷』でもそうだったが、日本には西洋のような長大な詩がないという所にコンプレックスがあり、かわりに俳句や短歌のような短い詩こそ日本独自のものだと礼賛してきた。
 平家物語や浄瑠璃姫などを叙事詩とせず、「詩」から除外してきたのは、多分明治の知識人がそうしたものを卑俗なものとみなしていたからなのだろう。西洋詩は漢詩と同格で、俳句短歌はそれに準じるものとされ、俳諧は詩どころか文学からも排除された。
 戦後の丸山真男も「現代日本の知的世界に切実に不足し、もっとも要求されるのは、ラディカルな精神的貴族主義がラディカルな民主主義と内面的に結びつくことではないか」と言っていた。自分を精神的に貴族だと勘違いしている辺りが痛い。でも日本がほんとに凄いのは庶民の文化だ。
 筆者は精神的庶民主義が持続可能資本主義と内面的に結びつくことを要求したい。
 精神的貴族主義なんてのは結局革命の指導者が自分で、「俺はお貴族様だ、えっへん」と言ってるようなもので、ろくなものではない。まあ、今どき丸山真男なんて名前はみんな忘れていると思うが(草)。筆者も学校で読まされて知っているだけだ。
 あと、久しぶりに長いこと明石帰りになっていた『源氏物語』の続きを読もうと思った。
 明石の入道が箏を引く場面からだが、何が何だかさっぱりわからず、こういう時に季吟さんの『湖月抄』は役に立つ。箏を引きながら、さりげなくこれは娘の真似しただけでと、娘に興味を持たそうとしている場面だった。
 「何の憚りかはべらむ。御前に召しても。商人の中にてだにこそ、古琴聞きはやす人は、はべりけれ。」
の部分も、御門の前だろうと商人の中だろうとОKというふうに読もうとしたが、これは「御門の前だろうと憚りない」で切るもので、商人の中で云々は白楽天の『琵琶行』だという。こういうのは注釈がないとなかなか思いつかない。
 出典があっても、琵琶を古琴にするように少し変えるというのは、俳諧の本説付けと一緒だ。

 それでは芭蕉の付け句の続き。
 「日の春を」の巻の七句目の、

   炭竃こねて冬のこしらへ
 里々の麦ほのかなるむら緑    仙化
 (里々の麦ほのかなるむら緑炭竃こねて冬のこしらへ)

の句の『初懐紙評注』には、

 「付やう別条なし。炭竃の句を初冬の末霜月頃抔の体に請て、冬畑の有様能言述侍る。その場也。」

とある。「その場也」という言葉は後の元禄八年支考編『西華集』でも頻繁に用いられるが、芭蕉が早くからこの言葉を用いてたのだろう。
 意味としては冬だから炭竃をこねて準備するというところに、背景として麦がようやく目を出した里が続く景を付けている。
 これと言って笑いにもって行くネタもなければ新味もなく、遣り句などは軽く景を付けて流すということだったが、支考の時代になると、俳諧は常にこの調子で良いという方に向かう。
 九句目。

   我のる駒に雨おほひせよ
 朝まだき三嶋を拝む道なれば   挙白
 (朝まだき三嶋を拝む道なれば我のる駒に雨おほひせよ)

 『初懐紙評注』には、

 「是さしたる事なくて、作者の心に深く思ひこめたる成べし。尤旅体也。箱根前にせまりて雨を侘たる心。深切に侍る。」

とある。
 「侘(わび)」とあるが、ここでは普通に難儀するという意味。芭蕉は「さび」「しほり」「細み」は説いたが「侘び」を美学としていたわけではない。ただ、旅体であれば旅の苦しさを描くのは、連歌の時代から羇旅の本意といえよう。
 小田原を朝未明に出て、箱根八里を越えて三島に至る道なれば、雨は困ったものだ。箱根を越えたことのある人なら痛切に感じる所だろう。
 十三句目にようやく芭蕉の句が登場する。

   敵よせ来るむら松の声
 有明の梨子打ゑぼし着たりける  芭蕉
 (有明の梨子打ゑぼし着たりける敵よせ来るむら松の声)

 『初懐紙評注』には、

 「付様別条なし。前句軍の噂にして、又一句さらに云立たり。軍に梨子打ゑぼしとあしらいたる付やう軽くてよし。一句の姿、道具、眼を付て見るべし。」

とある。
 付け方としては特に変わったものではない。前句が軍(いくさ)だから、梨子打ゑぼしを登場させたという。
 ネットで梨打烏帽子を調べると、「中世歩兵研究所 戦のフォークロア」というサイトがあり、「萎烏帽子」というページにこうあった。

 「烏帽子の中でもっとも原初的で、もっともありふれた物が「萎烏帽子【なええぼし】」(もしくは「揉烏帽子【もみえぼし】」「梨打烏帽子【なしうちえぼし】」)である。
 烏帽子が平安後期から漆で塗り固められ、素材も紙などに変わって硬化していく中で、「萎烏帽子」は薄物の布帛を用いた柔らかいままの姿をとどめ、公家が「立烏帽子」、武家が「侍烏帽子」を着用する中で、「萎烏帽子」は広く一般の成人男子に、また戦陣における武家装束としても着用された。」

 これを読めば「軍に梨子打ゑぼしとあしらいたる」の意味がわかる。
 「あしらう」というと今では「適当にあしらう」なんて慣用句があるが、和食では食材の組み合わせで彩を添えることをいい、連歌では付き物によって付けることをいう。
 特に本説などによる深い意味を持たせず、ここでは軽くあしらわれている。「軽い」というのは出典の持つ深い意味を引きずらずに、出典を知らなくても意味が通るように付けることをいう。
 芭蕉の「軽み」の風はこれよりまだ数年先のことだが、それ以前の蕉風確立期でも、付け句に関しては展開を楽にするために軽いあしらいを推奨していた。「一句の姿、道具、眼を付て見るべし」とは、これが付け句の手本だと言っているようなものだ。
 それとここで「道具」という単語が出ていることにも注意しておこう。後に許六が「発句道具」「脇道具」など、道具に格があることを述べている。ここでは梨打烏帽子がこの付け句の道具ということになる。物付けの時の前句の「敵(かたき)よせ来る」に応じて持ち出した言葉だが、この言葉が一句の取り囃しとなっている。
 句を盛り上げたり新味を出したりするときに持ち出す要となる言葉と言っていいだろう。
 十四句目。

   有明の梨子打ゑぼし着たりける
 うき世の露を宴の見おさめ    筆
 (有明の梨子打ゑぼし着たりけるうき世の露を宴の見おさめ)

 『初懐紙評注』には、

 「前句を禁中にして付たる也。ゑぼしを着るといふにて、却て世を捨てるといふ心を儲たり。観相なり。」

とある。
 前句の梨子打ゑぼしを宮中の公式行事の際の烏帽子ではなく、退出する際の普段着の烏帽子としたか。
 江戸時代ではみんなちょん髷頭を晒しているが、中世まではちょん髷頭をさらすのは裸になるよりも恥とした。職人歌合の博徒のイラストには素っ裸のすってんてんになった博徒の頭に烏帽子だけが描かれている。
 禁裏を退出して出家するにも、髪を剃るまでは烏帽子をかぶっている。烏帽子をかぶるのもこれが最後という思いで「うき世の露を宴の見おさめ」とする。
 『初懐紙評注』の「観相なり」という言葉は、支考の『西華集』でも用いられている。

   草に百合さく山際の道
 我こころちいさい庵に目の付て  支考

の句への自注で、

 「行脚の観相也。大家高城もかつてうらやまず早百合の道のほそぼそと、かくても住れけるよと目のつきたるは、泉石烟霞のやまひいゆる時なからんと、我心をとがめたる余情也」

としている。
 その時の思いを付ける、という意味で良いのだろう。
 三十五句目。

   近江の田植美濃に恥らん
 とく起て聞勝にせん時鳥     芳重
 (とく起て聞勝にせん時鳥近江の田植美濃に恥らん)

 『初懐紙評注』には、

 「時節を云合せたる句也。美濃近江と二所いふにて、郭公をあらそふ心持有て、とく起て聞勝にせんとは申侍る也。」

とある。これも支考流では「時節也」であろう。
 田植えといえば初夏でホトトギスの季節になる。早起きしていち早く今年最初のホトトギスの声を聞き、美濃のホトトギスに勝ちたい、と。
 三十七句目。

   船に茶の湯の浦あはれ也
 つくしまで人の娘をめしつれて  李下
 (つくしまで人の娘をめしつれて船に茶の湯の浦あはれ也)

 『初懐紙評注』には、

 「此句趣向句作付所各具足せり。舟中に風流人の娘など盗て、茶の湯などさせたる作意、恋に新し。感味すべし。松浦が御息女をうばひ、或は飛鳥井の君などを盗取がる心ばへも、おのづからつくし人の粧ひに便りて、余情かぎりなし。」

とある。
 「余情(よせい)」という言葉は先に引用した支考の『西華集』の注にも用いられている。はっきりとこういう事情だとわかるのではなく、想像を掻き立てられるような句ということであろう。
 「娘など盗て」というのは当時のリアルな誘拐事件ではなく、あくまで王朝時代の物語の趣向と思われる。
 「飛鳥井の君」は『狭衣物語』、「松浦が御息女」はよくわからないが『源氏物語』の玉鬘か。
 四十四句目。

   理不尽に物くふ武者等六七騎
 あら野の牧の御召撰ミに     其角
 (理不尽に物くふ武者等六七騎あら野の牧の御召撰ミに)

 『初懐紙評注』には、

 「前句の勢よく替りたり。野馬とりに出立たる武士の体、尤面白し。三句のはなれ、句の替り様、句の新しき事、よく眼を止むべし。」

とある。
 これは略奪から一転して道草の句に。荒野の牧場にお殿様の乗る馬を選びにきたものの、そんな簡単なことではない。むちゃ振りというか、理不尽な命令にすねた武者等が道草食う。
 江戸中期になると「三句の渡り」なんてことが言われるが、本来連歌も俳諧も三句に渡ってはいけないもので、「三句のはなれ」が正しい。「句の替り様」こそ連句の醍醐味といっていい。
 『初懐紙評注』は五十句目までで終わっているが、その後に芭蕉の句がある。
 五十三句目。

   京に汲する醒井の水
 玉川やをのをの六ツの所みて   芭蕉
 (玉川やをのをの六ツの所みて京に汲する醒井の水)

 井手の玉川は宇治の南にあり、平成の名水百選にも選ばれている。

 かはづ鳴く井手の山吹散りにけり
     花の盛りにあはましものを
              よみ人知らず(古今集)

 の歌にも詠まれている。
 ただ、玉川は京都(山城)だけでなく、近江の野路の玉川、摂津の三嶋の多摩川、武蔵の調布の玉川、陸奥の野田の玉川、紀伊の高野の玉川と合わせて「六玉川」と呼ばれていた。
 六つの玉川の水をそれぞれ見て歩いたが、やはり京の醒井の水が一番ということか。
 六十句目。

   餅作る奈良の広葉を打合セ
 贅に買るる秋の心は     芭蕉
 (餅作る奈良の広葉を打合セ贅に買るる秋の心は)

 「贅(にへ)」は古語辞典によれば「古く、新穀を神などに供え、感謝の意をあらわした行事」とあり、「新穀(にひ)」と同根だという。それが拡張されて朝廷への捧げものや贈り物にもなっていった。
 前句の「餅作る」を端午の節句の柏餅ではなく神に供える新穀とし、「奈良」を楢ではなく文字通りに奈良の都とする。「広葉を打合セ」を捨てて、奈良で餅を作り新穀として献上するために買われてゆくのを「秋の心」だなあ、と結ぶ。
 六十九句目は恋へと展開する。

   姉待牛のおそき日の影
 胸あはぬ越の縮をおりかねて 芭蕉
 (胸あはぬ越の縮をおりかねて姉待牛のおそき日の影)

 前句の「牛」から牽牛・織姫の縁で、狭布(けふ)の細布ならぬ越後縮みを折る女性を登場させたのだろう。
 「胸あはぬ」は、

 錦木は立てながらこそ朽ちにけれ
     けふの細布胸合はじとや
               能因法師(後拾遺集)
 みちのくのけふの細布程せばめ
     胸あひがたき恋もするかな
               源俊頼

などの用例がある。「狭布(けふ)の細布」は幅が細いため、着物にしようとすると胸が合わないところから、逢うことのできない恋に掛けて用いられた。
 ただ、ここでは胸が合わないのは元々細い布だからではなく、多分皺をつけるときに縮みすぎたのだろう。なかなか思うような幅に織れなくて、牽牛は延々と待たされている。
 「越後縮(えちごちぢみ)」はウィキペディアの「越後上布」の項に、

 「現在では新潟県南魚沼市、小千谷市を中心に生産される、平織の麻織物。古くは魚沼から頚城、古志の地域で広く作られていた。縮織のものは小千谷縮、越後縮と言う。」

とある。「縮織(ちぢみおり)」はコトバンクの「大辞林第三版の解説」によれば、

 「布面に細かい皺(しぼ)を表した織物の総称。特に、緯よこ糸に強撚糸を用いて織り上げたのち、湯に浸してもみ、皺を表したもの。綿・麻・絹などを材料とする。夏用。越後縮・明石縮など。」

だという。

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