今朝は雨が止んだ。今日は重陽。
今までは早朝散歩だったが、涼しくなったので昼の散歩にした。店も開いていた買い物もできる。
雨上がりだと蜘蛛の巣がたくさんある。『鬼滅の刃』で蜘蛛が怖くなった人がいたら、『蜘蛛ですが、なにか?』を見れば蜘蛛が可愛く思えてくる。アニメを見たが時系列がよくわからないので、ラノベの方を読んでいる。一巻と二巻はkindleunlimitedで読めるが、もうすぐ有料エリアに入る。
日本では蜘蛛は大切にされていた。むやみに殺したり追出したりしてはいけない。
あと、鈴呂屋書庫に「八人や」の巻と、天和二年春の「田螺とられて」の巻をアップしたのでよろしく。
「田螺とられて」の巻は『校本芭蕉全集 第五巻』(小宮豐隆監修、中村俊定注、一九六八、角川書店)の「連句篇補遺」の所に収められているもので、最近になって発見されたもののようだ。
もう一巻「月と泣」の巻があるので、追ってアップしたいと思う。
同じ天和二年に春に、其角・嵐雪・嵐蘭という後の蕉門を支えるメンバーに一晶を加えての、「花にうき世」の巻が興行される。
この巻は天和三年刊其角撰の『虚栗』に収録され、いわゆる虚栗調の始まりとなる。
八句目は謡曲『蝉丸』による本説付けになる。
琵琶洗ふ雨よし朝の時雨よし
朝にえぼしをふるふ紙衣 芭蕉
(琵琶洗ふ雨よし朝の時雨よし朝にえぼしをふるふ紙衣)
前句の琵琶を楽器の琵琶として、紙衣を着た貧しい琵琶法師、蝉丸とした。
謡曲『蝉丸』に、
「たまたまこと訪ふものとては、峯に木伝ふ猿の声、袖を湿す村雨の、音にたぐへて琵琶の音を、弾きならし弾きならし」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.41489-41495). Yamatouta e books. Kindle 版. )
という、雨に琵琶を弾く場面がある。
談林時代なら謡曲の詞をそのまま句の中に取り込む所だが、ここではあくまで趣向だけを取り込む。
紙衣は紙子と同じで、防寒性にすぐれているがすぐボロボロになるところから、ボロボロの紙子を着た乞食という、ステレオタイプ的なイメージがあったようだ。
目が見えないということで宮廷から追い出されて逢坂山の粗末な庵に棲む蝉丸の哀れを、ここでは茶化したりせずにその情をそのまま引き継ぎ、「紙衣」という所だけが俳諧になる。
十三句目も古典の哀れの情で付けている。
藤ハ退-之が肝-魂ヲ奪う
雷鳥のはつねハ觜ヲ鳴ルならん 芭蕉
(雷鳥のはつねハ觜ヲ鳴ルならん藤ハ退-之が肝-魂ヲ奪う)
韓退之の『送孟東野序』の一節に、に『鳥ヲ以テ春ニ鳴リ、雷ヲ以テ夏ニ鳴ル』とあるによった。」
「維天之於時也亦然 擇其善鳴者而假之鳴。是故以鳥鳴春 以雷鳴夏 以蟲鳴秋 以風鳴冬 四時之相推敓 其必有不得其平者乎。」
(音楽と同様、天もまた時に応じて、善く鳴るもの選び、それを借りて善く鳴る。それゆえ鳥でもって春を鳴らし、雷でもって夏を鳴らし、虫でもって秋を鳴らし、風でもって冬を鳴らす。四季折々のことが推し進められれば、必ず平穏でないことなんてあるわけがない。)
とある。
天は四時にその時々の音を鳴らす、春は鳥、夏は雷、秋は虫、冬は風というように。
藤というと、
わがやどの池の藤波さきにけり
山郭公いつか來鳴かむ
よみ人しらず(古今集)
この歌ある人のいはく、柿本人麿が歌なり
の歌があるように、ホトトギスの初音を期待させるものだが、ここでは雷に掛けて雷鳥の初音とする。とはいえ、雷鳥の声などほとんど聞く機会がないし、ここでは雷に似せて嘴を鳴らす音にしている。
雷鳥の雷という所に予想外な展開をするが、韓退之の言う四季の物音が大地に平和をもたらすという本意を損なうものではない。
なお、雷鳥は、
しら山の松の木陰にかくろひて
やすらにすめるらいの鳥かな
後鳥羽院(夫木抄)
の歌にも詠まれている。
十九句目は一応時事ネタか。
破_蕉誤ツテ詩の上を次グ
朝鮮に西瓜ヲ贈る遥ナリ 芭蕉
(朝鮮に西瓜ヲ贈る遥ナリ破_蕉誤ツテ詩の上を次グ)
天和二年は朝鮮通信使の来た年でもある。ただ、実際に来たのは六月でまだ先のことだ。来るという噂は聞いていただろう。
この時の朝鮮通信使の様子は、「錦どる」の巻に参加した曉雲(後の英一蝶)の師匠の狩野安信が絵に描き残している。
朝鮮(チョソン)の使節を迎える時には漢詩を交わしたりするのが通例だった。もっとも、それは韻を継いだりするもので、当然ながら上句を付けたりはしない。芭蕉が出席したら漢詩に付け句をやってくれたかも、というところで「朝鮮贈西瓜、遥也」という詩句を作る。
二十九句目は故事による本説付けになる。
山ン野に飢て餅を貪ル
盗ミ井の月に伯夷が足あらふ 芭蕉
(盗ミ井の月に伯夷が足あらふ山ン野に飢て餅を貪ル)
伯夷(はくい)はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、
「中国古代、殷(いん)末周初の伝説上の人物。孤竹君の子。国君の後継者としての地位を弟の叔斉(しゅくせい)と譲りあってともに国を去り、周に行った。のち、周の武王が暴虐な天子紂王(ちゅうおう)を征伐したとき、臣が君を弑(しい)するのは人の道に反するといさめたが聞かれず、首陽山に隠れ、やがて餓死したと伝えられる。清廉な人間の代表とされる。」
とある。
「足あらふ」は『楚辞』「漁父辞」に「滄浪之水濁兮、可以濯吾足。(滄浪の水濁らば以つて我が足を濯ふべし)」とある。
首陽山に隠れた伯夷は漁父に諫められて、月の映る盗ミ井の水が濁ってたので足を洗い、世の流れに従おうと心に決め、餓死するのをやめて盗み食いをした。
三十四句目はあるあるネタか。
暁の寐言を母にさまされて
つゐに発心ならず也けり 芭蕉
(暁の寐言を母にさまされてつゐに発心ならず也けり)
働くのが嫌でお寺に入ろうかななんて寝言を言っていると、母に「何言ってるの、早く起きなさい」と急き立てられ発心の夢は終わる。今だったらユーチューバーになりたいとか言うのかな。
この年の暮の「詩あきんど」の巻は其角との両吟で、やはり天和調を代表する巻となる。
其角の発句は、
酒債尋常住処有
人生七十古来稀
詩あきんど年を貪ル酒債哉 其角
で、これに芭蕉が、
詩あきんど年を貪ル酒債哉
冬-湖日暮て駕馬鯉 芭蕉
の脇を付ける。
発句の前書きの漢詩は杜甫の「曲江詩」
曲江 杜甫
朝囘日日典春衣 毎日江頭盡醉歸
酒債尋常行處有 人生七十古來稀
穿花蛺蝶深深見 點水蜻蜓款款飛
傳語風光共流轉 暫時相賞莫相違
朝廷を追われ春の着物を質屋に入れて送る日々
毎日曲江の畔で酔っぱらって帰るだけだ
行くところはどこも酒の付けがあって当たり前
どうせ人生七十過ぎてまで生きることは稀だ
花の間を舞うアゲハはこそこそしてるし
水を求めるトンボはわが道を行くかのようだ
伝えて言う、この眺望よ共に流れてゆく定めなら
しばらくは違いに目をつぶりお互いを認め合おう
からの引用だ。「古稀」という言葉の語源と言われている。
後半は比喩で陰謀術策をめぐらしている同僚や、周りに無関心な上司のことだろう。そして、どうせみんな最後は年老いて死んでくだけじゃないか、と語りかける。
どうせいつかは死ぬんだから借金など気にせずに酒でも飲んで仲良くやろうじゃないか、そう言いながら「詩あきんど」つまり詩で生計を立てる者はうだうだ酒飲んでは時間を浪費し、付けが溜まってゆく。
其角の発句は俳諧師という職業をやや自虐的にそう語っている。「年を貪ル」は今年一年を貪ってきたという意味で、歳暮の句となる。
芭蕉野分の「駕馬鯉」は「うまにこひのする」と読む。
「冬-湖」は前書きを受けて曲江のことであろう。一年を酒飲んで過ごした前句の詩あきんどは、曲江の湖の畔で釣りをして過ごし、鯉を馬に乗せて帰ると和す。
鯉は龍になるとも言われる目出度い魚で、これを売って一年の酒債を返しなさいということか。
まあ其角さんの場合、結局最後は鯉屋の旦那(杉風)が何とかしてくれるという楽屋落ちの意味があったのかもしれない。
十七句目は前句からして楽屋落ちだが。
芭蕉あるじの蝶丁見よ
腐レたる俳諧犬もくらはずや 芭蕉
(腐レたる俳諧犬もくらはずや芭蕉あるじの蝶丁見よ)
前句の「蝶丁」を丁々発止の激論と取り成し、そこから論敵を激しく非難する言葉を導き出す。芭蕉の発言というよりは、逆に芭蕉がそう罵られたと自虐的に取る方がいいだろう。実際に貞門の重鎮なんかはそんなふうに思ってただろう。
二十二句目はシモネタ。
嘲リニ黄-金ハ鋳小紫
黒鯛くろしおとく女が乳 芭蕉
(嘲リニ黄-金ハ鋳小紫黒鯛くろしおとく女が乳)
『連歌俳諧集 日本古典文学全集32』(一九七四、小学館)の注によれば、「おとく」はお多福のことだという。
ネタとしては、いわゆる業界で言う「びーちくろいく」の類で、シモネタといっていいだろう。黒というのは使い込まれて汚れたというイメージがあるもので、遊びすぎるとあそこが黒くなるという種の猥談ネタはいつの世にもあるのだろう。
黄金の小紫に黒鯛のお多福を対比させ、対句的に作る相対付けの句。
二十六句目は空想趣味といえよう。
鉄の弓取猛き世に出よ
虎懐に妊るあかつき 芭蕉
(鉄の弓取猛き世に出よ虎懐に妊るあかつき)
摩耶夫人は六本の黄金の牙を持つ白いゾウが右わき腹に入る夢を見てお釈迦様を御懐妊したという。
百合若大臣のような勇者誕生には、母親が虎が懐に入る夢を見たという逸話があってもいいではないか、というところか。
二十八句目。
山寒く四-睡の床をふくあらし
うづみ火消て指の灯(ともしび) 芭蕉
(山寒く四-睡の床をふくあらしうづみ火消て指の灯)
「指の灯」は『連歌俳諧集 日本古典文学全集32』(一九七四、小学館)の注には、「掌(たなごころ)に油を入れ、指に燈心をつかねて火をともす仏教の苦行。」とある。
芭蕉と同時代に了翁道覚という僧がいて、明から来た隠元和尚にも仕えた。
ウィキペディアによれば、
「寛文2年(1662年)にはついに「愛欲の源」であり学道の妨げであるとしてカミソリで自らの男根を断った(羅切)。梵網経の持戒を保ち、日課として十万八千仏の礼拝行を100日間続けた時のことであった。同年、その苦しみのため高泉性敦禅師にともなわれて有馬温泉(兵庫県神戸市)で療養している。摂津の勝尾寺では、左手の小指を砕き燃灯する燃指行を行い、観音菩薩に祈願している。
翌寛文3年(1663年)には長谷寺(奈良県桜井市)、伊勢神宮(三重県伊勢市)、多賀大社(滋賀県多賀町)にも祈願している。さらに同年、了翁は京都清水寺に参籠中、「指灯」の難行を行った。それは、左手の指を砕いて油布で覆い、それを堂の格子に結びつけて火をつけ、右手には線香を持って般若心経21巻を読誦するという荒行であった。このとき了翁34歳、左手はこの荒行によって焼き切られてしまった。」
と、実際に「指の灯」を実践している。
寛文11年(1671年)には上野寛永寺に勧学寮を建立し、この歌仙が巻かれた頃も寛永寺にいた。ウィキペディアによれば、
「天和2年(1682年)には、天和の大火いわゆる「八百屋お七の火事」により、買い集めていた書籍14,000巻を失ったが、それでもなお被災者に青銅1,100余枚の私財を分け与え、棄て児数十名を養い、1,000両で薬店を再建し、1,200両で勧学寮を完工させ、台風で倒壊した日蓮宗の法恩寺を再建するなど自ら救済活動に奔走した。」
ということもあったようだ。奇しくもこの歌仙は天和の大火の直前に巻かれたものだった。
天和という時期は、『俳諧次韻』の「世に有て」の風に一直線に進むのではなく、延宝の頃の芭蕉の奇抜な空想やリアルなあるある、時にはシモネタも交えた俳諧ならではの庶民の笑いとの調和を図る時代でもあった。
古典の風雅の世界、それにリアルな現実、面白い空想、この調和はやがて芭蕉の『野ざらし紀行』から『奥の細道』に至る長い旅路の果てに「不易流行説」を生み出して行くことになった。
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