引き続き岩波の『古浄瑠璃 説教集』の「をぐり」を読む。小栗判官の物語だが、ここにも大和言葉が出てきた。
ストーリーがハードモードでも、こういう遊びを入れることで楽しませてくれる。こういうのも、今のラノベに受け継がれているのかもしれない。
貞享三年の春は『蛙合』『春の日』が刊行され、古池の句の大ヒットとなった時期でもある。
そんな頃、ふたたび清風の小石川江戸屋敷で興行が行われる。発句は、
花咲て七日鶴見る麓哉 芭蕉
になる。
花の盛りは七日くらいなので「花七日」とも言われている。その七日間は鶴を見るような気分です、というもの。清風を鶴に喩えたのかもしれない。
十七句目の、
虹のはじめは日も匂なき
しづみては温泉を醒す月すごし 芭蕉
(しづみては温泉を醒す月すごし虹のはじめは日も匂なき)
は月暈(げつうん)のことか。
日も沈んで温泉(いでゆ)を醒ますかのように空気は冷たく、日が射してないのに虹が掛かっている月が不気味だ。
二十三句目。
涙おりおり牡丹ちりつつ
耳うとく妹が告たる時鳥 芭蕉
(耳うとく妹が告たる時鳥涙おりおり牡丹ちりつつ)
耳が遠くて妻にホトトギスの声がしたのを教えてもらう。今更ながらに年老いてしまったことを嘆く。妻の方も昔の華やかさもなく散りゆく牡丹のようだ。
三十四句目。
哀さは苫屋に捨し破れ網
何やらなくて塩やかぬ浦 芭蕉
(哀さは苫屋に捨し破れ網何やらなくて塩やかぬ浦)
江戸時代の製塩は塩田に取って代わられ藻塩は廃れていった。この少し後になるが『笈の小文』で須磨へ行った時も芭蕉は、「『藻塩(もしほ)たれつつ』など歌にもきこへ侍るも、今はかかるわざするなども見えず。」と書いている。
苫屋に古典の情を思い起こしても、時代の違いを感じる。
こうしたしみじみとするような、今で言うとエモい句が蕉風確立期の一つの到達点を示すのかもしれない。
貞享三年の俳諧はあまり残っていない。現存するものと言うと、次は秋の「蜻蛉の」の巻半歌仙になる。
芭蕉は脇を務める。
蜻蛉の壁を抱ゆる西日かな
潮落かかる芦の穂のうへ 芭蕉
(蜻蛉の壁を抱ゆる西日かな潮落かかる芦の穂のうへ)
発句の壁を葦原とし、海辺の風景とする。これはトンボ=秋津から秋津島=豊葦原の瑞穂の国を連想したか。深川芭蕉庵での興行であれば、海も近い。
発句、脇とも特に寓意はなく、古典回帰というのか、この頃は発句・脇ともに挨拶としての寓意を持たせていない。宗祇の頃の最盛期の連歌はそれほどあからさまな寓意はなかった。
五句目。
沓にはさまる石原の露
入月の薄粧たる武者ひとり 芭蕉
(入月の薄粧たる武者ひとり沓にはさまる石原の露)
鎌倉時代までの武士は馬に乗るため貫(つらぬき)という沓を履いた。
江戸時代までは男も化粧していたという。特に武将には欠かせなかったという。まあ、だから歌舞伎の隈取もそんなに違和感はなかったのだろう。
三谷脚本の大河ドラマ『真田丸』でも、北条氏政が顔を真っ白に塗って登場した。
今でも日本にはビジュアル系という音楽文化があり、舞台での男の化粧は定着している。
八句目は猿酒ネタだが、前句の狐に付けて狐酒にしている。
山寺は昼も狐のさまかへて
花とひ来やと酒造るらし 芭蕉
(山寺は昼も狐のさまかへて花とひ来やと酒造るらし)
山寺の狐は花見の季節になると人が来るといって酒を造る。ただ、狐の作る酒だから本当は何なのか。芭蕉の空想の句は健在だ。
十四句目は無常の句。
調なき形見の鼓音も出ず
何も焼火に皆盡しけり 芭蕉
(調なき形見の鼓音も出ず何も焼火に皆盡しけり)
財産になりそうなものが何もないので皆死者と一緒に燃やしてあげた。
取り囃しはなく、シンプルに付けているが、無常の句にはこういうシンプルさが効果的だ。
十七句目
渋つき染し裏の薮かげ
みみづくの己が砧や鳴ぬらん 芭蕉
(みみづくの己が砧や鳴ぬらん渋つき染し裏の薮かげ)
前句の「渋つき染」は柿渋で染めた衣で被差別民を象徴する。薮もそうした部落の連想を誘う。こうした哀れな人たちに、ミミズクの声を添える。
「みみづく」は羽角のはっきりとしたコノハズクかオオコノハズクであろう。短い声で鳴くので砧を打つ音に聞こえなくもない。薮の向こうからその音がする。
ミミズクはしばしば頭巾をかぶり蓑を着た、もこもこと着膨れた旅姿に喩えられる。蓑もまた聖なるものであるとともに賤を象徴するものでもある。
けうがる我が旅すがた
木兎の独わらひや秋の暮 其角
の句がある。
同じ貞享三年の冬に「冬景や」の巻の歌仙興行がなされているが、残念ながら二句欠落している。
芭蕉は第三で、其角の脇に付ける。
となりを迷ふ入逢の雪
年の貧たはら負行詠して 芭蕉
(年の貧たはら負行詠してとなりを迷ふ入逢の雪)
前句の「となりを迷ふ」を隣を見て迷うとし、隣で米俵を背負っている人を詠(ながめ)して、我が身の貧しさを付ける。
十四句目は謡曲『通小町』のネタ。
加茂川の流れを胸の火にほさむ
萩ちりかかる市原のほね 芭蕉
(加茂川の流れを胸の火にほさむ萩ちりかかる市原のほね)
京都市原の補陀落寺は小野小町の終焉の地とされている。謡曲『通小町』では、僧が市原に訪れると、
秋風の吹くにつけてもあなめあなめ
小野とは言はじ薄生ひけり
という歌が聞こえてくる。この歌は鴨長明の『無名抄』では、在原業平が陸奥を旅した時に、「秋風の吹くにつけてもあなめあなめ」という歌が聞こえてきて、行ってみると目から薄の生えた髑髏が見つかる。人に聞くとここが小野小町の終焉の地だという。そこで業平が「小野とはいはじ薄生ひけり」と付けたという物語になっている。謡曲では陸奥ではなく京都市原になっている。
このことを踏まえて、前句を小野小町の恋歌として、市原の小町の髑髏に萩を添えて弔う歌にする。
十九句目は前句の「傾城(遊郭)」ネタを、本当に国が傾くと取り成す。
桃になみだが一国の酔
朝がすみ賢者を流す舟みえて 芭蕉
(朝がすみ賢者を流す舟みえて桃になみだが一国の酔)
国を顧みない皇帝に賢者が左遷されてゆく。杜甫も華州(現在の陝西省渭南市)の司功参軍に左遷された。
二十四句目は「時節也」の付けであろう。
四ッの時冬はあられのさらさらと
水仙ひらけ納豆きる音 芭蕉
(四ッの時冬はあられのさらさらと水仙ひらけ納豆きる音)
冬の霰さらさら降る頃はもうじき水仙も咲く。納豆は冬の寒いときに低温で熟成させる。お寺では配り納豆を行う。薬食い(冬のスタミナをつけるための獣肉食)をしない僧には貴重な蛋白源だ。
「納豆きる」は引き割り納豆を作る作業で、芭蕉はのちの元禄三年に、
納豆切る音しばし待て鉢叩き 芭蕉
の句を詠む。鉢叩きの音が聞こえるから納豆を切るのを待ってくれという句になる。
三十句目。
月入て電残る蒲すごく
ことしの労を荷ふやき米 芭蕉
(月入て電残る蒲すごくことしの労を荷ふやき米)
前句の蒲の茂る草原に、周辺の百姓の稲刈りを労う。
やき米はウィキペディアに、
「焼米とは、新米を籾(もみ)のまま煎(い)ってつき、殻を取り去ったもの。米の食べ方・保存法の一つ。 そのままスナック菓子として食べても良いし、汁物に浮かべて粥にして食べるという雑多な利用法があった。米粒状・粉状と形態も様々である。」
とある。収穫して精米せずにすぐに食べられるので、稲刈りの後に食べたのであろう。
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