2021年10月29日金曜日

 今日も良い天気で、寺家ふるさと村を起点にして三輪椙山神社や鶴見川沿いを散歩した。
 三輪椙山神社には大正七年銘の狛犬があった。目玉が黒く、口の中が赤く彩色されていた。鶴見川にはカルガモはもとより、マガモやカイツブリもいた。
 岩波の『古浄瑠璃 説教集』の「公平甲論(きんぴらかぶとろん)」を読もうと思ったら、読んでてさっぱりわからない。登場人物が多いこともさることながら、「頼義長久合戦公平生捕問答」という前作の続きで、前作を読んでないからわからないはずだ。
 とりあえず、登場人物をまとめてみた。
 面白いのは坂田の公平(金平)という勇者がいて、れつさん・じゃうばんという二人の魔王と戦うという図式があることだ。坂田の公平は坂田金時がモデルであろう。

源頼義方

 源頼義
  実在の人物でコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)「源頼義」の解説」に、

 「平安中期の武将。頼信(よりのぶ)の子。1031年(長元4)父に従い、平忠常(ただつね)の乱を鎮定した。小一条院(こいちじょういん)(敦明(あつあきら)親王)の判官代(ほうがんだい)として仕え、功により36年相模守(さがみのかみ)となり、東国の武士を従えた。51年(永承6)陸奥(むつ)の安倍頼時(あべのよりとき)(頼良(よりよし))が背くと、頼義は陸奥守として鎮撫(ちんぶ)に赴いた。頼時は降服し、53年(天喜1)頼義は鎮守府将軍となったが、56年に頼時はふたたび反乱を起こした。翌年、頼義は頼時を討ったが、頼時の子貞任(さだとう)を中心とする安倍氏の抵抗の前に苦戦し、出羽(でわ)の清原(きよはら)氏の援助を得て62年(康平5)やっと貞任を討ち、安倍氏を滅ぼし(前九年の役)、その功により翌年、正四位下、伊予(いよ)守となった。妻は平直方(なおかた)の娘。[上横手雅敬]」

とある。

 おくみの平太左衛門
  「前作で流刑の頼義を預かり味方となるが、らいげんに討たれた。」
 おくみの平太左衛門が兄弟の子供、年ひろ
 おくみの平太左衛門が兄弟の子供、年みち
 舎弟、おくみの弥二郎

 定兼
  頼義四天王の一人。
  「碓井貞光の息子という設定、遠江守、前作でらいげんに右の肩先を切られた。」
 季宗
  頼義四天王の一人。
  「卜部季武の息子という設定、駿河守。前作でらいげんに右膝をを切られた。」
 一人武者
  「平井保昌の息子という設定。播磨守。名は清春。前作でらいげんに右腕を切り込まれた。」
 竹綱
  頼義四天王の一人。武蔵守。
 坂田の公平(金平)
  頼義四天王の一人。兵庫の守。勇者。
 山田の源内時定
  源家の侍。

 備中国、吉田の小太郎道のり
 八幡の五郎

 大ばの権太郎清道
  あぐろ山に閉じ籠る。
 大ばの太兵衛はる清(平太兵衛)
  あぐろ山に閉じ籠る。
 大ばの庄司道国
  清道、はる清の祖父
 渡部のぜんじもり綱
  竹綱の祖父

 周防国ひろとみの旗頭、ひろとみの平内本秀
 周防国もりだの十郎

 相模国もんまの四郎やす時
 相模国もんまの五郎やすひろ
 駿河国竹の下兄弟三人

 相模国本間
 相模国渋谷
 みつはのぜんし
 やぎりの八郎
 関屋の大将ながぬまの源太

ただすの広長方

 ただすの広長(権大納言広長)
  源頼義を熊野の浦に流す。讒人。
 ただすの中将しげ長
  広長の子

 むとうの伝内とものり
 むとうの伝内源次ともみつ
 竹原猪熊入道らいげん
  この三人は前の戦いで首を取られる。

 らいげんの朋友
  出雲国しの村しがの入道れつさん。魔王。
  備後国三次の一族、三あくの律師じやうばん。魔王。

 播州うすきの平蔵

 備中石田の兵どう時氏
 備中伝内左衛門もり時
  石田の兵どう時氏の嫡子

 荒木兄弟

 さて風流の方の続き。
 続く名古屋での十一月二十八日、昌碧亭での興行では、芭蕉が発句を詠む。

 ためつけて雪見にまかる帋子哉  芭蕉

 「帋子(かみこ)」は風を通さないので防寒着にもなる。ただ湿気には弱そうなので、雪見に行くときは衣の下に来たのではないかと思う。
 昌碧の家に来るのにちゃんと衣の皺を伸ばし、きちんとした格好で来ました、というのだが、そのあと「雪見にまかる」とくると、「ただし雪を見にね」となり、整えたのは紙子でしたという落ちになる。活字で見ると分かりにくいが、これをゆっくりと吟じると、最後の「紙子」の所でみんな笑ったのではないかと思う。
 十四句目は旅体で、旅の苦しさを付ける。

   門跡の顔見る人はなかりけり
 笈に雨もる峯の稲妻       芭蕉
 (門跡の顔見る人はなかりけり笈に雨もる峯の稲妻)

 前句の門跡を廃寺になった門の跡と取り成したか。誰もいない廃寺に笈を背負った巡礼の旅人がしばし雨宿りする。笈の上に雨漏りの水が落ち、峯には稲妻が光る。
 三十句目。

   月しのぶ帋燭をけしてすべり入
 もの着て君をおどす秋風     芭蕉
 (月しのぶ帋燭をけしてすべり入もの着て君をおどす秋風)

 帋燭が消えたかと思ったら、急に何かが部屋に入ってきた。お化けかと思ってびっくりしたが、よく見ると秋風に吹き飛ばされた衣だった。
 幽霊の正体見たり的なネタだ。

 同じ頃の名古屋での興行であろう。荷兮、重五以外は見知らぬ名前が並ぶが、貞門系の人達か。
 発句の、

 露冴て筆に汲ほすしみづかな   芭蕉

の句は後に、

   苔清水
 凍解て筆を汲干すかな      芭蕉

に改作されている。
 冬の興行なので、清水の露が氷るように冷たいけど、この興行を書き留める筆のために汲み干しましょう、という興行開始の挨拶で、まあ、皆さん沢山句を付けて下さいね、という意味になる。
 十二句目は母の悲哀。

   朝もよひ我苣母の食に煮ん
 おぼろのかがみ値百銭      芭蕉
 (朝もよひ我苣母の食に煮んおぼろのかがみ値百銭)

 母ともなると色気もなくなり、鏡が曇ったまま長いこと砥いでない。
 そんな鏡は値千金とは言えないが、百銭の価値はある。
 二十一句目は古典ネタ。

   なでしこ手折瘡の瑞籬
 赤顔に西施が父の髭むさき    芭蕉
 (赤顔に西施が父の髭むさきなでしこ手折瘡の瑞籬)

 赤顔(あかがほ)は赤ら顔のこと。
 西施は庶民の生まれなので父親がどういう人かは知られていない。勝手に赤顔の髭面ということにする。
 この時代には梅毒がないので、前句の瘡は瘡蓋か腫物の意味になる。

 十二月一日は熱田の桐葉亭での興行になる。名古屋と熱田はそう遠くないが、名古屋には名古屋の連衆、熱田には熱田の連衆とはっきり分かれていて、あまり交流がなかったのか。博多と福岡のような違いなのかもしれない。城下町の名古屋と門前町の熱田とは雰囲気が全く違っていたのだろう。
 この日は大垣から如行を迎えての興行になる。これも岐阜は名古屋、大垣は熱田という組み合わせなのか。
 芭蕉の旅立ちの時の発句、

 旅人と我名よばれん初霽     芭蕉

の句を受けて、

   芭蕉老人京までのぼらんとして熱田にしばし
   とどまり侍るを訪ひて、我名よばれんといひ
   けん旅人の句をきき、歌仙一折
 旅人と我見はやさん笠の雪    如行

の句を発句として半歌仙興行が行われる。
 芭蕉の脇は、

   旅人と我見はやさん笠の雪
 盃寒く諷ひ候へ         芭蕉
 (旅人と我見はやさん笠の雪盃寒く諷ひ候へ)

で、「はやす」から「諷(うた)ひ」を付け、「雪」から「盃寒く」と四手に受ける。
 発句の「見はやさん」と主体を変えずに、旅人と見はやすから、寒いけど謡ってくれと二句一章にする。まあ、如行さんも大垣から旅をしてきたのだし、ともに旅人だということで、この半歌仙を楽しもうというところか。
 五句目。

   露になりけり庭の砂原
 こみかどに駒引むこふ頭ども   芭蕉
 (こみかどに駒引むこふ頭ども露になりけり庭の砂原)

 前句の砂の庭を馬場として、駒引きを付ける。
 駒引きはコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「① 平安時代、毎年八月中旬に、諸国の牧場から献上した馬を天皇に御覧に入れる儀式。天皇の御料馬を定め、また、親王、皇族、公卿にも下賜された。もと、国によって貢馬の日が決まっていたが、のちに一六日となり、諸国からの貢馬も鎌倉末期からは信濃の望月の牧の馬だけとなった。秋の駒牽。《季・秋》 〔九暦‐九条殿記・駒牽・天慶元年(938)九月七日〕
  ※俳諧・去来抄(1702‐04)先師評「駒ひきの木曾やいづらん三日の月〈去来〉」

とある。「こみかど」は正門ではない門で、ここでは馬のための入口になる。
 十七句目は時事ネタか。

   美濃侍のしたり顔なる
 御即位によき白髪と撰出され   芭蕉
 (御即位によき白髪と撰出され美濃侍のしたり顔なる)

 貞享四年は東山天皇の即位した年だった。ただ、その式典に白髪の美濃侍がいたかどうかは知らない。

 十二月四日は名古屋へ行き、聴雪亭で名古屋の連衆と歌仙興行をする。
 発句は、

 箱根越す人もあるらし今朝の雪  芭蕉

で、句の方は説明するほどのものでもなく、まあ、他人事だけど今日箱根を越す人は大変だろうなという句。
 八句目。

   帷子に袷羽織も秋めきて
 食早稲くさき田舎なりけり    芭蕉
 (帷子に袷羽織も秋めきて食早稲くさき田舎なりけり)

 当時の早稲は香り米で独特な匂いがあったという。ウィキペディアに、

 「日本において香り米が記載されている最古の文献は、日本最古の農書とされる『清良記』で、「薫早稲」「香餅」と記載されている。『清良記』と同じく17世紀に刊行された『会津農書』にも「香早稲」「鼠早稲」との記述がみられる。19世紀初頭に刊行された鹿児島の農書『成形図説』によると、日本では古代から神饌米、祭礼用、饗応用に用いられてきた。19世紀末に北海道庁が編纂した『北海道農事試験報告』によると、香り米は古くから不良地帯向けのイネとして知られており、北海道開拓の黎明期にも活用された。」

とある。
 なお、『奥の細道』の旅で芭蕉は、

 早稲の香や分け入る右は有磯海  芭蕉

の句を詠んでいる。
 二十四句目。

   ころつくは皆団栗の落しなり
 その鬼見たし蓑虫の父      芭蕉
 (ころつくは皆団栗の落しなりその鬼見たし蓑虫の父)

 蓑虫の句は貞享二年夏の「涼しさの」の巻の六十七句目にも、

   わけてさびしき五器の焼米
 みの虫の狂詩つくれと啼ならん  芭蕉

の句があった。
 許六編『風俗文選』の素堂「蓑虫ノ説」に、

 「みのむしみのむし。声のおぼつかなきをあはれぶ。ちちよちちよとなくは。孝に専なるものか。いかに伝へて鬼の子なるらん。清女が筆のさかなしや。よし鬼なりとも瞽叟を父として舜あり。汝はむしの舜ならんか。」

と記している。
 蓑虫は鳴かないが「ちちよちちよ」と鳴くというのは、ウィキペディアによればカネタタキの声を蓑虫の声と誤ったのではないかと言う。まあ、ミミズが鳴くというのも、実はおケラの声だったというから。
 「清女」は清少納言のことで『枕草子』に

 「みのむし、いとあはれなり。鬼の生みたりければ、親に似てこれもおそろしき心あらんとて、親のあやしききぬひき着せて、今秋風吹かむをりぞ来んとする」

とある。瞽叟(こそう)は伝説の舜帝の父で、コトバンクの「世界大百科事典内の瞽叟の言及」に「舜の父は瞽叟(こそう)で暗黒神。」とある。
 団栗が落ちる中で一人ぶら下がっている蓑虫は父親が鬼だと言われている。どんな鬼なのか見てみたいという句で、団栗の落ちる木に蓑虫をあしらう。
 なお、芭蕉は翌三月伊賀を訪れた時に、土芳の蓑虫庵の庵開きにと、

 みの虫の音を聞きにこよ草の庵  芭蕉

の句を贈っている。
 また、そのあと葛城山で、

 猶みたし花に明行神の顔     芭蕉

の句を詠んでいる。
 二十八句目は古典ネタ。

   ひょっとした哥の五文字を忘れたり
 妻戸たたきて逃て帰りぬ     芭蕉
 (ひょっとした哥の五文字を忘れたり妻戸たたきて逃て帰りぬ)

 「妻戸」はコトバンクに「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」に、

 「寝殿造の住宅で、出入口に設けた両開きの板製の扉。寝殿造では、周囲の建具は蔀(しとみ)であったため、出入りには不便であり、そのため建物の端の隅に板扉を設けて出入口とした。妻は端を意味し、端にある扉であるために妻戸とよばれた。寺院建築や神社建築では板扉を板唐戸(いたからと)という。妻戸は板唐戸の形式の扉であったため、この形式の扉は建物の端に設けられなくても、すべて妻戸の名でよばれるようになった。[工藤圭章]」

とある。
 王朝時代の歌合の時に、歌の下手な人が事前に誰かに作ってもらってそれを覚えて行って披露するつもりだったのが、本番の時にその歌を忘れてしまったのだろう。妻戸を叩いて逃げ帰って行く。
 和泉式部の娘の小式部内侍が歌合の時に定頼の中納言に、「母からの文(ふみ)は来たか」と代作を疑われたのに答えて、

 大江山いく野の道の遠ければ
     まだふみも見ず天橋立
              小式部内侍(金葉集)

と詠んだという話はよく知られている。
 三十三句目はいわゆる楽屋落ち。

   ねぶたき昼はまろび転びて
 旅衣尾張の国の十蔵か       芭蕉
 (旅衣尾張の国の十蔵かねぶたき昼はまろび転びて)

 「十蔵」は『校本芭蕉全集 第三巻』の注に「越人の通称」とある。コトバンクの「美術人名辞典の解説」にも、

 「江戸中期の俳人。北越後生。通称は十蔵(重蔵)、別号に負山子・槿花翁。名古屋に出て岡田野水の世話で紺屋を営み、坪井杜国・山本荷兮と交わる。松尾芭蕉の『更科紀行』の旅に同行し、宝井其角・服部嵐雪・杉山杉風・山口素堂と親交した。『不猫蛇』を著し、各務支考・沢露川と論争した。蕉門十哲の一人。享保21年(1736)歿、80才位。」

とある。
 前句のぐうたら者はまるで越人だなということで、越人はいじりやすい人柄だったのだろう。

 十二月九日は同じく名古屋の一井亭での半歌仙興行になる。
 発句は

 たび寐よし宿は師走の夕月夜    芭蕉

で、興行は夕方から始まったのであろう。
 「たび寐よし」と一井の家に今日は泊めてもらうということで、当座の興に即した挨拶句になっている。九日の月はほぼ半月。
 八句目は『源氏物語』葵巻の六条御息所の本説であろう。

   起もせできき知る匂ひおそろしき
 乱れし鬢の汗ぬぐひ居る      芭蕉
 (起もせできき知る匂ひおそろしき乱れし鬢の汗ぬぐひ居る)

 「あやしう、われにもあらぬ御心ちをおぼしつづくるに、御ぞなども、ただけしのかにしみかへりたり。
 あやしさに、御ゆするまゐり、御ぞきかへなどし給ひて、こころみ給へど、なほおなじやうにのみあれば、我が身ながらだにうとましうおぼさるるに、まして、人のいひ思はむことなど、人にのたまふべきことならねば、心ひとつにおぼしなげくに、いとど御こころがはりもまさり行く。
 (妙な自分が自分でなくなるような感覚は続いていて、御衣などもただ、祈祷の際に焚いた護摩の芥子の香が染み付くばかりです。
 気持ち悪いので髪を洗ったり御衣を着替えたりしても、これといって変化もないので自分のことながら嫌になり、まして人がどう思っているかなど人に聞くわけにもいかず、一人で悶々とするだけでますます精神に変調をきたして行くばかりです。)

の場面であろう。
 十五句目。

   馬もありかぬ山際の霧
 小男鹿のそれ矢を袖にいつけさせ  芭蕉
 (小男鹿のそれ矢を袖にいつけさせ馬もありかぬ山際の霧)

 「いつけさせ」は「射付けさせ」で袖を射抜いてということ。
 街道から外れた山道、霧の中を歩いているとさお鹿を狙った矢が袖を射抜いてゆく。危ないから知らない山に勝手に入ってはいけない。抜け道などせずに街道を歩こう。
 旅ではたまに起きることだったか。

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