今日も晴。
自由民主党の平成二十二年綱領を見てたら、そこにはこう書いてあった。
「我々が護り続けてきた自由(リベラリズム)とは、市場原理主義でもなく、無原則な政府介入是認主義でもない。ましてや利己主義を放任する文化でもない。自立した個人の義務と創意工夫、自由な選択、他への尊重と寛容、共助の精神からなる自由であることを再確認したい。従って、我々は、全国民の努力により生み出された国民総生産を、与党のみの独善的判断で国民生活に再配分し、結果として国民の自立心を損なう社会主義的政策は採らない。」
これを見る限りは、税金を用いた富の再配分は自民党の意図するところではない。「新しい資本主義」は基本的にこれに沿ったものであり、ここからの逸脱は許されない。
天和二年十二月二十八日、暮れも押し迫るころ、江戸の町は大火にみまわれる。天和の大火は「お七火事」とも呼ばれている。
この火事で隅田川を渡って飛んできた火の粉に深川芭蕉庵も類焼し、芭蕉は隅田川に飛び込んで難を逃れたと言われている。
余談だが、隅田川に飛び込むという行為は一九四五年三月十日の東京大空襲では通用しなかった。焼夷弾は油を燃やしているので水にも強い。川の水は焼夷弾の火を消すことができず、川までが炎に包まれ、隅田川に飛び込んだ多くの人も焼け死んだ。恐るべし焼夷弾。転スラの井沢静江もこの時の火災で死んだ設定になっている。
今は亡き母の話によれば、空襲を免れた谷中の高台から見た連合軍の焼夷弾は、花火のように奇麗だったという。
話を戻すが、天和の大火で被災した芭蕉は、翌天和三年の歳旦に、
元日や思へばさびし秋の暮 桃青
の句を詠んでいる。被災した状況での歳旦に、目出度くもあり目出度くもなしの心境だったのだろう。
この年の夏、芭蕉は麋塒の伝手でしばらく甲斐国谷村(今の山梨県都留市)に滞在する。
「故艸」の巻はその滞在中のもので、
故艸垣穂に木瓜もむ屋かな 麋塒
を発句とする。この時代に「木瓜(キュウリ)」は珍しい。ウィキペディアには、
「日本には6世紀に華南系キュウリが中国から伝わったとされるが、明治期に華北系キュウリが入ってきたといわれ、本格的に栽培が盛んになったのは昭和初期からである。仏教文化とともに遣唐使によってもたらされたとみられているが、当初は薬用に使われたと考えられていて、空海が元祖といわれる「きゅうり加持」(きゅうり封じ)にも使われてきた。南伝種の伝来後、日本でも江戸時代までは主に完熟させてから食べていたため、「黄瓜」と呼ばれるようになった。完熟した後のキュウリは苦味が強くなり、徳川光圀は「毒多くして能無し。植えるべからず。食べるべからず」、貝原益軒は「これ瓜類の下品なり。味良からず、かつ小毒あり」と、はっきり不味いと書いているように、江戸時代末期まで人気がある野菜ではなかった。」
とある。
第三の、
笠おもしろや卯の実むらさめ
ちるほたる沓にさくらを拂ふらん 芭蕉
の句は、玉屑の「閩僧可士送僧詩」の「笠重呉天雪 鞋香楚地花」の句をふまえたもので、飛び回る蛍を散った桜の花びらの空中に漂うのに喩え、「鞋香楚地花(靴は楚地の花を香らす)」に倣って沓でその花(蛍)をはらうのだろうか、とする。桜はあくまで比喩なので「らん」と疑って結ぶ。
笠には卯の実の村雨を重ね、沓には蛍が花のように香る。漢詩の対句を踏まえた相対付けになる。
六句目は囲碁ネタ。
ややさぶの殿は小袖をうちかけて
紅白の菊かぜに碁を採 芭蕉
(ややさぶの殿は小袖をうちかけて紅白の菊かぜに碁を採)
前句の「うちかけて」を碁の「打ち掛け(途中休憩)」と掛けて、碁の場面とする。
打ち掛けになったので小袖をうち掛けて、ふと庭を見れば紅白の菊までが碁石に見えてくる。
九句目は前句の「舎人」を受けての王朝時代の設定で、
とねりは縁をかりて居ねぶる
楊弓のそれ矢は御簾にとどまりて 芭蕉
(楊弓のそれ矢は御簾にとどまりてとねりは縁をかりて居ねぶる)
と、貴族の館で縁側で舎人が居眠りしているところに、遊ぶ子供の放った矢が奥の御簾を直撃してしまった、とする。
楊弓(やうきゆう)はウィキペディアに、
「楊弓(ようきゅう)とは、楊柳で作られた遊戯用の小弓。転じて、楊弓を用いて的を当てる遊戯そのものも指した。弓の長さは2尺8寸(約85cm)、矢の長さは7寸から9寸2分とされる。中国の唐代で始まったとされ、後に日本にも伝わり、室町時代の公家社会では、「楊弓遊戯」として遊ばれた。」
とあり、江戸時代には矢場で用いられた。
十八句目は万葉集ネタになる。この時代に『万葉集』は珍しい。
通夜堂のかいくれ花をのぞくころ
さくら子消てつり鐘に垂 芭蕉
(通夜堂のかいくれ花をのぞくころさくら子消てつり鐘に垂)
「さくら子」は『万葉集』巻十六、三七八六、三七八七の歌の前書きに登場する。
昔者娘子(むかしをとめ)あり、字(な)を
桜児(さくらこ)といひき。時に二(ふたり)
の壮士(をとこ)あり。共にこの娘(をとめ)
を誂(つまど)ひて、生(いのち)を損(す)
てて挌競(あらそ)ひ、死を貧りて相敵(あひ
あた)みき。ここに娘子なげきて曰ひしく。
古より今にいたるまで、未だ聞かず。未だ見ず、
一(ひとり)の女の身にして、二つの門に往適(ゆ)
くといふことを。方今(いま)壮士(をとこ)
の意和平(こころやはら)ぎ難きものあり。
妾死(あれみまか)りて、相害(あらそ)ふこと
永く息(や)まむには、といひき。すなはち林の
中に尋ね入りて、樹に懸りて経(わな)き死にき。
その両(ふたり)の壮士哀慟(をとこかなし)む
に敢へず、血の泣襟(なみだえり)に漣(したた)り、
各心緒(おもひ)を陳(の)べて作れる歌二首。
春さらば挿頭にせむとわが思ひし
桜の花は散りにけるかも
妹が名に懸けたる櫻はな咲かば
常にや恋ひむいや年のはに(『新訂新訓万葉集下巻』佐々木信綱編、一九二七、岩波文庫)
二人の男から求婚されてどちらも選べずに自殺した女に二人の男が和歌を詠むというものだが、実話かどうかはわからない。そういう設定で二人の男が歌を詠むという歌合せだったのかもしれない。
歌合せではないかというのは、その次に御丁寧にも同じような設定で三人の男から求婚されて、やはり三人の男が歌を詠むというのがあるからだ。ここでは鬘子という名前になっている。
その「さくら子」は「樹に懸りて経き死にき」とあるから首を吊ったのだろう。それを踏まえてここでは「つり鐘に垂(たる)」とする。通夜堂だけに釣り鐘のように首を吊った。
二十七句目は教訓めいた句だ。こういう句も芭蕉には時々ある。
奢をのちの臣にいさめる
千金はいやしく糞土をたからとす 芭蕉
(千金はいやしく糞土をたからとす奢をのちの臣にいさめる)
「糞土」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「〘名〙 (古くは「ふんと」)
① 糞と土。また、腐った土。汚ない土。
※正法眼蔵(1231‐53)行持下「金銀珠玉、これをみんこと糞土のごとくみるべし」 〔管子‐揆度〕
② 転じて、きたないもの、卑しむべきもののたとえ。
※薩長土肥(1889)〈小林雄七郎〉四藩政府即聯立内閣「彼等は戊辰前後より廃藩置県に至るまで天下人士の糞土視し」 〔春秋左伝‐僖公二八年〕」
とある。
この正法眼蔵の言葉に限らなくても、金銀を卑しむ考え方は仏教や老荘思想ではそんなに珍しいものではない。「千金は卑しく糞土をたからとす」という金言もいかにもありそうだ。前句の臣を諫めた言葉とする。
「糞土をたからとす」は農業に励めとも取れる。
三十句目は恋で、
吉原の三十年を老のつくも髪
ねやのはしらに念仏書おく 芭蕉
(吉原の三十年を老のつくも髪ねやのはしらに念仏書おく)
と、吉原で遊ぼうと思ったら遊女歴三十年のベテランが出てきたので、閨の柱に念仏を書き残してきたというネタだ。まあ、そういう遊女にも敬意を払って遊ぶのが、本当の遊び人というものだが。芭蕉の遊び人レベルはそんなに高くない。
全体にこの巻は古典の世界に遊ぶ句が多く、それは江戸を離れて田舎に来たというのもあると思うが、まだ田家のリアルを描く段階にはなかったようだ。
江戸に戻った後、芭蕉は故郷の母の死を知る。冬にようやく第二次芭蕉庵ができたが、俳諧の方は大きな動きもなく、深川隠棲が続く。
翌天和四年は二月二十一日に貞享元年となる。そしてこの年の八月、芭蕉は伊賀帰郷を兼ねての『野ざらし紀行』の旅に出ることになる。
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