2021年10月20日水曜日

 今日は朝から晴れた。富士山が雪で白くなっていた。
 随分と久しぶりに寺家ふるさと村に行った。様子が変わっていて、すっかり公園として整備されていた。
 あと元禄七年夏の「水鶏啼と」の巻鈴呂屋書庫にアップしたのでよろしく。

 次の「はつ雪の」の巻第三では、

   霜にまだ見る蕣の食
 野菊までたづぬる蝶の羽おれて  芭蕉

 (野菊までたづぬる蝶の羽おれて霜にまだ見る蕣の食)

と、前句を比喩として展開する。そのままの意味だったのを比喩に展開したり、比喩だったのをそのままの意味で展開するのは、連歌の頃からしばしば行われている。
 「蕣の食」を朝顔のような儚い飯という比喩として、晩秋の野菊に最後の力を振り絞った蝶も羽が折れて、霜の上に落ちたとする。
 十句目は、

   床ふけて語ればいとこなる男
 縁さまたげの恨みのこりし    芭蕉
 (床ふけて語ればいとこなる男縁さまたげの恨みのこりし)

と、親族が余計な口出ししたり借金をこさえてしたりして、縁談の妨げになるのはよくあることで、リアルなあるあるネタになる。
 二十三句目は囲碁ネタ。

   三線からん不破のせき人
 道すがら美濃で打ける碁を忘る  芭蕉
 (道すがら美濃で打ける碁を忘る三線からん不破のせき人)

 前句の「三線」を三味線のことではなく碁盤の端から三番目の線のこととして、そこに「からん」と碁石を置く。
 美濃で碁に負けたことも、不破の関を越える頃には忘れる。勝ったなら忘れないところだが。
 三十二句目の重五の句だが、

   秋蝉の虚に聲きくしづかさは
 藤の実つたふ雫ぽつちり     重五
 (秋蝉の虚に聲きくしづかさは藤の実つたふ雫ぽつちり)

 ここは景を付けて逃げ句にするつもりだったのだろう。ただ、藤は花は詠むが藤の実は珍しい。
 藤の実というと、元禄二年に素牛(後の惟然)と出会った時、素牛がこの地を訪れが宗祇法師の話をし、

   美濃国関といふ所の山寺に藤の花の咲きたるを見て
 関こえて爰も藤しろみさか哉   宗祇

という句を残したのを聞いて、

   関の住素牛何がし大垣の旅店を訪はれしに彼ふちしろみさ
   かといひけん花は宗祇の昔に匂ひて
 藤の実は俳諧にせん花の跡    芭蕉

という句を詠んでいる。(『風羅念仏にさすらう』沢木美子、一九九九、翰林書房)
 藤はマメ科なので鞘に入った豆の実がなる。藤の花が連歌なら藤の実は俳諧ということで、花も大事だが実も大事だということを教えたという。ちょうど芭蕉にとっても不易流行説の固まる頃だったのだろう。
 この時芭蕉の脳裏にはこの重五の句もあったかもしれない。「藤の実」はこの時は遣り句の道具に過ぎなかったが、芭蕉はそれを発句の道具に高めることとなった。
 この重五の句の後の三十三句目は芭蕉が付ける。

   藤の実つたふ雫ぽつちり
 袂より硯をひらき山かげに    芭蕉
 (袂より硯をひらき山かげに藤の実つたふ雫ぽつちり)

 矢立てのことであろう。筆のケースの先に小さな硯のついたもので、芭蕉が用いたのは檜扇型という扇子のように横に蓋をスライドさせて使うタイプのものだという。『奥の細道』の旅立ちの時に、

 「行春や鳥啼き魚の目は泪    芭蕉
 これを矢立の初として、行道なをすすまず。」

と記している。
 旅で矢立ての硯を開いて何か書きつけようとしていると、藤の実の雫が落ちてくる。
 つづく「つつみかねて」の巻の四句目。

   歯朶の葉を初狩人の矢に負て
 北の御門をおしあけのはる    芭蕉
 (歯朶の葉を初狩人の矢に負て北の御門をおしあけのはる)

 北の御門は搦手門とも言われ、小型で目立たない普通の家で言うと勝手口にあたる。初狩りといってもお忍びの外出か。「押し開け」と「年の明ける」を掛ける。
 いかにもありそうな情景を付けて巧みに掛詞を用いた展開は、蕉風確立期の風を完全にものにしたといってもいいだろう。
 なお名古屋城の場合は東に搦手門があり北には不明(あかず)御門があったという。
 九句目は相撲ネタだが、

   燈籠ふたつになさけくらぶる
 つゆ萩のすまふ力を撰ばれず   芭蕉
 (つゆ萩のすまふ力を撰ばれず燈籠ふたつになさけくらぶる)

と田舎相撲で人情を見せている。
 夜の御寺の境内で燈籠を灯して相撲が行われるが、土俵脇には萩に露が降り、あまりきれいなので思い切り投げ飛ばすわけにもいかず、力比べではなく情け比べになってしまった。これなどは「細み」と言っていいだろう。
 十六句目は災害から釈教へ展開する。

   まがきまで津浪の水にくづれ行
 仏喰たる魚解きけり       芭蕉
 (まがきまで津浪の水にくづれ行仏喰たる魚解きけり)

 魚の腹の中から仏像が出てくればこれは有難い、奇跡だということで、復興のシンボルにもなるだろう。ありそうな霊験譚を付ける。
 後に桃隣編『陸奥衛』で、桃隣がみちのくを旅して桑折までもどってきたときに、

 「仙臺領宮嶋の沖より黄金天神の尊像、漁父引上ゲ、不思儀の緣により、此所へ遷らせたまひ、則朝日山法圓寺に安置し奉ル。惣の御奇瑞諸人擧て詣ス。まことに所は邊土ながら、風雅に志ス輩過半あり。げに土地の清浄・人心柔和なるを神も感通ありて、鎭坐し給ふとは見えたり。農業はいふに及ず、文筆の嗜み、桑折にとゞめぬ
       天神社造立半
    〇石突に雨は止たり花柘榴」(舞都遲登理)」

と記している。
 十九句目。

   五形菫の畠六反
 うれしげに囀る雲雀ちりちりと  芭蕉
 (うれしげに囀る雲雀ちりちりと五形菫の畠六反)

 六反の畑の上に囀る雲雀を付けた、単純に景を付けて流したような句だが、ここに「ちりちり」というオノマトペで俳言とする。軽みの時代になるとこれを発句道具にして、

 梅が香にのつと日の出る山路哉  芭蕉

のように発句にも取り入れられる。ただ、この擬音の使用は「狂句こがらし」の巻五句目に既に、

   朝鮮のほそりすすきのにほひなき
 ひのちりちりに野に米を刈    正平

とあるところから、芭蕉の方が名古屋の門人から学んでいると言っていいだろう。
 芭蕉は独力で新風を切り開いているのではない。むしろ若い門人たちの良いものを巧妙に盗んでいると言った方が良いのかもしれない。天才というのは学習能力の高い人のことで、頭が柔軟で、自分が思いつかなかったものをすぐに取り込む才能なのかもしれない。
 この巻の挙句は、

   こがれ飛たましゐ花のかげに入
 その望の日を我もおなじく    芭蕉
 (こがれ飛たましゐ花のかげに入その望の日を我もおなじく)

で、これは、

 願はくは花のしたにて春死なむ
     その如月の望月の頃
              西行法師(続古今集)

の歌によるもので、西行法師の魂が体から抜け出して花の蔭に入っていくなら、我が魂も同じように花の蔭に入ってゆきたい、と極楽往生を願う体で一巻が終了する。
 季語はないが「その望の日」は「その如月の望月の頃」の意味なので一応春ということになる。これは

 世にふるもさらに宗祇のやどり哉 芭蕉

の句が、

 世にふるもさらに時雨のやどり哉 宗祇

の句を元にしているので、「時雨」の文字がなくても時雨の句で冬になるのと同じだ。これは談林時代からある手法で、『俳諧次韻』のきっかけになった信徳編『七百五十韻』の「八人や」の巻の七句目、

   青物使あけぼのの鴈
 久堅の中間男影出で       常之

の、月の文字はないけど「中元(七月十五日)」の久堅の天に影出でで、実質月の句になる、このテクニックの応用と言っていいだろう。
 続く「炭売の」の巻の十二句目は恋の句で、

   捨られてくねるか鴛の離れ鳥
 火をかぬ火燵なき人を見む    芭蕉
 (捨られてくねるか鴛の離れ鳥火をかぬ火燵なき人を見む)

 火を置かない火燵に、いつも火を用意してくれたあの人はいないのかと思いつつ、それでいて自分で火を入れようとしない。前句をすねているのか、一羽になってしまったオシドリとしている。
 十七句目はロジックネタというか、逆説ネタというか。

   ふゆまつ納豆たたくなるべし
 はなに泣桜の黴とすてにける   芭蕉
 (はなに泣桜の黴とすてにけるふゆまつ納豆たたくなるべし)

 花の散るのを悲しみ、この世は所詮桜の黴にすぎないと世捨て人になったが、冬になるとお寺でその黴(正確には菌)で作った納豆を叩いている。
 二十九句目。

   つづみ手向る弁慶の宮
 寅の日に旦を鍛冶の急起て    芭蕉
 (寅の日に旦を鍛冶の急起てつづみ手向る弁慶の宮)

 弁慶から毘沙門天の発想はありそうだが、その毘沙門天を言葉の裏に隠して、あえて毘沙門天の縁日の「虎の日」とする。このような単純な付け合いの連想ゲームを嫌い、それをさらに婉曲にして言葉の裏に隠す手法は、後の匂い付けにつながる。
 寅の日は毘沙門天の縁日。コトバンクの「世界大百科事典内の毘沙門天の言及」に、

 「《弁慶物語》などでも,弁慶は太刀,飾りの黄金細工,鎧(よろい)などを五条吉内左衛門,七条堀河の四郎左衛門,三条の小鍛冶に作らせていて,炭焼・鍛冶の集団の中で伝承されたとする金売吉次伝説との交流を思わせる。 鍛冶の集団は毘沙門天(びしやもんてん)を信仰していたから,《義経記》の中で鞍馬(くらま)寺が大きな比重を占めるのも,鍛冶の集団の中で伝承され成長した物語が《義経記》の中に流れ込んだためとも考えられる。また,山伏と鍛冶との交流も考えられるが,問題はそれらの個々の伝承者を離れて,弁慶が典型的な民間の英雄として,その像がどのような種類の想像力によって生成されたかを解明することであろう。」

とある。
 鍛冶は毘沙門天を信仰していたので、寅の日の朝は早く起きて弁慶の宮に鼓を手向ける。
 三十四句目はミスマッチネタ。

   粥すするあかつき花にかしこまり
 狩衣の下に鎧ふ春風       芭蕉
 (粥すするあかつき花にかしこまり狩衣の下に鎧ふ春風)

 狩衣の上に鎧を着るならわかる。下にというのは戦場での休息か。花見の席なので鎧は似合わず、上に狩衣を着て隠すということか。
 後の、

 何事ぞ花みる人の長刀      去来

にも通じるものがある。
 最後の「霜月や」の巻。
 発句の、

   田家眺望
 霜月や鸛の彳々ならびゐて    荷兮

の句は「て」留で発句としてはかなり意表を突いたものだ。後に芭蕉が許六に言った「底を抜く」ということだろう。
 こういうのを芭蕉は見逃さない。すぐに翌年の春に、

 辛崎の松は花より朧にて     芭蕉

の句を詠むことになる。
 荷兮の発句には、芭蕉が脇を付ける。

   霜月や鸛の彳々ならびゐて
 冬の朝日のあはれなりけり    芭蕉
 (霜月や鸛の彳々ならびゐて冬の朝日のあはれなりけり)

 軽く朝日を添えて流すが、そこにももちろんこの興行の場所を褒め称える寓意を含んでいる。上句下句合わせて、

 霜月や鸛の彳々ならびゐて
     冬の朝日のあはれなりけり

と和歌のように綺麗につながっている。
 こうした穏やかに日和を付けるだけの脇は、『ひさご』の、

   木の本に汁も膾も桜哉
 明日来る人はくやしがる春    風麦

の脇を取らずに、

   木のもとに汁も膾も桜かな
 西日のどかによき天気なり    珍碩

の脇を採用したところにも受け継がれている。
 二十六句目。

   芥子あまの小坊交りに打むれて
 おるるはすのみたてる蓮の実    芭蕉
 (芥子あまの小坊交りに打むれておるるはすのみたてる蓮の実)

 この頃の子どもはその髪型から「芥子坊主」と呼ばれていたが、女の子は「芥子あま」になる。
 蓮の実は食べられるので、昔は子供が取って食べる格好のおやつだったという。食べごろの蓮の実だけが折られている。
 「食べた」と言わずに折れた蓮の実とそうでない蓮の実があるという所で匂わす所も、後の匂い付けに通じるものが感じられる。
 『冬の日』は、これまで『俳諧次韻』の「世に有て」の巻で展開された作風を、名古屋の連衆に触発されて全面的に推し進めることになった、その意味での記念すべき一巻だった。これによって蕉風の俳諧が固まったといってもいい。そこには既に後の匂い付けの萌芽も見られる。

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