2021年10月30日土曜日

 昨日に続いてふるさと村を起点に、今度は上麻生の秋葉大権現まで歩いた。本地垂迹で浄慶寺の境内にある。
 お寺の方には現代的な羅漢像が並んでいる。その中にアマビエ像も加わっていた。神社の方は明治二十三年銘の狛犬があり、優しい顔をしている。大権現なので鈴ではなく、仏教式に鰐口を鳴らすようになっている。
 岩波の『古浄瑠璃 説教集』の最後の「一心二河白道」を読んだ。昨日の「公平甲論」とこれは、中世的なものがほとんど感じられず、江戸時代になってからのものなのだろう。
 「公平甲論」は緻密な設定の割には、人間の残虐な部分にはあまり触れず、今でいういわゆるバトルものになっている。
 「一心二河白道」はストーカーの悲劇の連鎖がテーマだが、仏教の果たす役割がかなり微妙で、古い時代の説教物とは一線を画す。
 今のドラマなら、ストーカーを退治し、有馬の湯を褒美に得て、目出度し目出度しで終わらせるところであろう。
 ここでは追い打ちをかけるように、まさに犯人からして僧であったように、仏自らが被害者に罪状を負わせてゆく。
 顕密仏教のゆるぎなかった時代とは違い、近世は儒教を国教とし、仏教を弱体化させようとしてきたし、儒者が独自の神道を作り出す所で、仏教と神道の分離も始まっていた。これは江戸時代には緩やかな不和として、せいぜい寺領と神社領の訴訟などの多発を生んだが、明治維新の廃仏毀釈で一つの沸点を迎えることとなった。
 「一心二河白道」も仏法を説くとともに、仏法に疑いを持たせる、両面を持っていたのではなかったかと思う。
 俳諧でも釈教句は仏法を説くとは程遠い、形だけ仏教の言葉の入った句が多くなるし、殺生や肉食の矛盾を突く句も多い。江戸時代は仏教、神道、儒教、道家などが相対化されて行く時代で、それが結局今日の日本人の霊性へとつながっていったのではないか。

 さて風流の方だが。
 年が明け貞享五年の春二月、伊勢で、

 何の木の花とは知らず匂ひ哉   芭蕉

を発句とする歌仙興行が催される。この発句は『笈の小文』にも収録される。また杜国が「の人」の名前で参加している。
 十三句目はその杜国の句で、

   碁に肱つきて涙落しつ
 いねがてに酒さへならず物おもひ の人
 (いねがてに酒さへならず物おもひ碁に肱つきて涙落しつ)

「の人(ひと)」は野人、野仁という字も充てるという。まあ、今でいうなら裏垢といったところか。不運な事件から尾張国を追放されていたので、野に下った人という意味でつけたか。
 「いねがて」は眠れなくてということ。眠れないうえに酒も飲めず碁盤で過去の棋譜を並べながら悶々としている。大きな試合に負けた棋士だろう。
 十八句目の芭蕉の句は被差別民の句で、

   もる月を賤き母の窓に見て
 藍にしみ付指かくすらん     芭蕉
 (もる月を賤き母の窓に見て藍にしみ付指かくすらん)

前句の賤き母を紺屋とした。
 紺屋はウィキペディアに、

 「柳田国男の『毛坊主考』によると、昔は藍染めの発色をよくするために人骨を使ったことから、紺屋は墓場を仕事場とする非人と関係を結んでいた。墓場の非人が紺屋を営んでいたという中世の記録もあり、そのため西日本では差別視されることもあったが、東日本では信州の一部を除いてそのようなことはなかった。山梨の紺屋を先祖に持つ中沢新一は実際京都で差別的な対応に出くわして初めてそのことを知らされたという。」

とある。
 被差別民であることがバレないように、藍の染み付いた指を隠す。
 二十五句目は古典ネタ。

   誰が駕ぞ霜かかるまで
 あこがるる楽の一手を聞とりて  芭蕉
 (あこがるる楽の一手を聞とりて誰が駕ぞ霜かかるまで)

 前句の「駕」は「のりもの」と読む。駕籠のこととは限らないので、ここでは牛車にする。
 『源氏物語』末摘花巻で常陸の親王の娘が七弦琴が得意だと聞いた源氏の君が、親王が名手だっただけにどういう琴を弾くのか気になり、わざわざ聞きに行く場面がある。ただ、季節は朧月夜だった。
 本説というほど物語に即してはなくて、王朝時代ならわざわざ霜の夜に楽の一手を聞きに行くこともあったのではないか、という所で付けている。俤付けと言っていいだろう。
 三十二句目は本説で付ける。

   親ひとり茶に能水と歎れつる
 まづ初瓜を米にしろなす     芭蕉
 (親ひとり茶に能水と歎れつるまづ初瓜を米にしろなす)

 「米にしろなす」は『校本芭蕉全集 第四巻』の宮本注に、

 「売って米に換えるの意。『類船』「瓜」の条に「孫鐘といふ人家貧にして瓜を作りし也」と見える」

とある。孫鐘の話はウィキペディアに、

 「孫鍾は呉郡富春県(現在の浙江省杭州市富陽区)の瓜売りの商人であった。はやくから父を亡くして母とふたりで暮らしおり、親孝行であったという。ある年に凶作の飢饉の状況であり、彼は生き延びるために、瓜を植えてそれを売って生計を立てていた。
 ある日に、彼の家の前にとつぜん三人の少年が現れて、瓜が欲しいとせがんだ。迷った孫鍾自身も生活が苦しいものの、潔く少年らに瓜を与えた。瓜を食べ終わった三人の少年はまとめて孫鍾に「付近の山の下に墓を作って、あなたが埋葬されれば、その子孫から帝王となる人物が出るだろう」と述べた。まもなく三人の少年は白鶴に乗っていずこかに去っていった。
 歳月が流れて、孫鍾が亡くなると、かつて少年らが述べた付近の山の下に埋葬されたが、当地からたびたび光が見えて、五色の雲気が昇ったという。」

とある。
 親にいつか茶に良い水を、と思いつつ、まずは瓜を育てて売ることから始める。その子孫が帝王になったかどうかはわからない。

 同じ伊勢の春、

 紙衣のぬるとも折む雨の花    芭蕉

を発句とする興行もおこなわれた。歌仙だったと思われるが、残念ながら断片的にしか残っていない。
 七句目。

   馬に西瓜をつけて行なり
 秋寒く米一升に雇れて      芭蕉
 (秋寒く米一升に雇れて馬に西瓜をつけて行なり)

 前句の馬で西瓜を運ぶ人は荷物を運ぶ専門の馬ではなく、たまたま馬を連れた百姓を見つけ、米一升で西瓜を運んでもらうとする。
 まあ、七夕の特需で馬が足りなかったのだろう。
 十六句目。

   いなづまの光て来れば筆投て
 野中のわかれ片袖をもぐ     芭蕉
 (いなづまの光て来れば筆投て野中のわかれ片袖をもぐ)

 稲妻の光は電光石火という言葉もあるように、瞬時に何かをひらめいたりするのにも用いられる。元はそれこそ雷に打たれたようにはっと悟りを開くことをいったのだが。
 ここでなかなか踏ん切りのつかなかった別れに、何か一筆と思ってた筆も投げ捨てて、片袖を破って形見として預けて別れる。
 『野ざらし紀行』の、

   杜国におくる
 白げしにはねもぐ蝶の形見哉   芭蕉

の句を彷彿させる。男女のというよりは男同士の、死してもう会えないかもしれないというような別れを感じさせる。
 何句目かはわからない付け合いだが、

   汐は干て砂に文書須磨の浦
 日毎にかはる家を荷ひて     芭蕉
 (汐は干て砂に文書須磨の浦日毎にかはる家を荷ひて)

 「文書」は「ふみかく」と読む。須磨の浦ということで在原行平の俤というのはお約束といえよう。ただ、普通につけても面白くないので「家を荷て」で浜のヤドカリを連想させたというところに芭蕉らしさがある。
 ヤドカリは「寄虫(がうな)」ともいう。『笈の小文』の旅に出る時の「旅人と」の巻四十一句目に、

   堺の錦蜀をあらへる
 隠家や寄虫の友に交リなん    観水

の句がある。
 もう一句、何句目かわからない付け合い。

   目前のけしきそのまま詩に作
 八ツになる子の顔清げなり    芭蕉
 (目前のけしきそのまま詩に作八ツになる子の顔清げなり)

 詩はこの時代では漢詩のことで、数え八歳で眼前の景を即興で漢詩にするなんて、なかなかできることではない。数え七歳で読書を始めて、すぐに渤海国の使節相手に漢詩を作って見せるほどになったという桐壺巻の源氏の君の俤であろう。「光君(ひかるきみ)」という名はこのとき渤海国の使節が付けた名前だという。

 貞享五年六月五日、『笈の小文』の旅を終えた芭蕉は明石から京へ戻り、一度岐阜へ行ってから大津に引き返した、その時、

 皷子花の短夜ねぶる昼間哉    芭蕉

の興行になる。尚白が参加している。
 第三で早速登場する。

   せめて凉しき蔦の青壁
 はつ月の影長檠にたたかひて    尚白
 (はつ月の影長檠にたたかひてせめて凉しき蔦の青壁)

 「長檠(ちゃうけい)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 台の高い灯火。また、その台。
  ※中華若木詩抄(1520頃)上「長檠は八尺、短檠は二尺也」

とある。八尺というと結構な高さがある。二メートル四十といったところか。
 初月は二日か三日の月。高い所の灯火が西の空に見える細い月に負けじと戦いを挑んでいる。今の街灯なら満月よりも明るいが、昔の灯しは弱々しく、初月と争うのがせいぜいだったのだろう。
 八句目。

   うかれたる女になれて日をつくる
 矢数に腕のよはる恋草       芭蕉
 (うかれたる女になれて日をつくる矢数に腕のよはる恋草)

 京都三十三間堂の通し矢は御三家対抗の競技会で盛り上がっていた。その通し矢のかつてのスターも遊郭にはまって今は見る影もないというところか。
 矢数というと西鶴の大矢数俳諧は貞享元年六月五日から六日にかけて住吉神社で二万三千五百句独吟興行を行った。矢数俳諧は延宝期に盛り上がりを見せ、『俳諧次韻』を共に巻いた才丸や天和期に「花にうき世」の巻に参加し、甲斐谷村にも同行した一晶も果敢にこの矢数俳諧に挑戦していた。許六がまだ常矩の門弟だった頃には、「一日ニ三百韻・五百韻を吐キ出す」なんてこともやってたという。
 西鶴の貞享元年の二万三千五百句独吟興行には其角もその場に居合わせていた。それくらい当時の俳諧師の関心は高かった。芭蕉も無関心だったわけではないだろう。ただ、芭蕉の才能は即吟向きではなく、寺社での聴衆の前での興行にも向いてなかったのだろう。それが『俳諧次韻』のようなテキストの遊びを取り入れた書物俳諧の方向に向かわせたのではなかったか。
 芭蕉は西鶴と違う方向に向かったが、何も意識してなかったわけではあるまい。二万三千五百句一昼夜に二万三千五百句という華々しい記録を作ったあと、西鶴は俳諧をやめたわけではなかったが、天和二年に『好色一代男』を書き、草紙の方で次々とヒット作を出し続けているのを見て、矢数俳諧の頃懐かしむ気持ちもあったのではないかと思う。西鶴は芭蕉のよきライバルではなく、別の所へ行ってしまった。「矢数に腕のよはる恋草」の句は、そんな裏の意味もあったのかもしれない。
 十五句目は景色の句。

   杖をまくらに菅笠の露
 いなづまに時々社拝まれて     芭蕉
 (いなづまに時々社拝まれて杖をまくらに菅笠の露)

 遠くにある社が稲妻が光るたびに姿を現す。

 貞享五年六月十九日岐阜での「蓮池の」の巻の興行は、名古屋の荷兮、越人をはじめとして惟然も初参加した。総勢十五人の連衆による賑やかな五十韻興行となった。
 その第三。

   水おもしろく見ゆるかるの子
 さざ波やけふは火とぼす暮待て  芭蕉
 (さざ波やけふは火とぼす暮待て水おもしろく見ゆるかるの子)

 「火とぼす暮」は暗に長良川の鵜飼いを指しているのだろう。鵜飼も良いがこうしてそれを待ちながらカルガモの子を見るのも癒される。
 四句目は越人で、

   さざ波やけふは火とぼす暮待て
 肝のつぶるる月の大きさ     越人
 (さざ波やけふは火とぼす暮待て肝のつぶるる月の大きさ)

と普通に月が登る情景だが、「肝のつぶるる」と俗語で大袈裟に囃している。
 登ったばかりの月は大きく見える。目の錯覚だというが。
 ここで惟然が登場する。
 五句目。

   肝のつぶるる月の大きさ
 苅萱に道つけ人の通るほど    惟然
 (苅萱に道つけ人の通るほど肝のつぶるる月の大きさ)

 萱を刈って人が通れるほどの道ができたところにちょうど夕暮れの月が昇り、それが異様にでかく見える。
 こういう平凡ながら今まであまり俳諧に詠まれることのなかった景色を見つけ出すのが、惟然の才能だったのかもしれない。出典だとか古典の情とかにこだわらないところが、軽み以降の最晩年の芭蕉の風に影響を与えて行くことになる。
 十六句目。

   蓬生の垣ねに機を巻かけて
 歯ぬけの祖父の念仏おかしき   芭蕉
 (蓬生の垣ねに機を巻かけて歯ぬけの祖父の念仏おかしき)

 前句を蓬に蔓草の茂った荒れた隠居所とし、歯の抜けた祖父(ぢぢ)が念仏を唱え、お勤めを行っている。ふがふがいう声が聞こえてくるようだ。
 二十句目の惟然の句も、

   秋の風橋杭つくる手斧屑
 はかまをかけて薄からする    惟然
 (秋の風橋杭つくる手斧屑はかまをかけて薄からする)

橋の工事のために邪魔なススキを刈っているという、俳諧ではこれまでなかったような日常の平凡な情景だ。
 三十三句目も、

   琴ならひ居る梅の静さ
 朝霞生捕れたるものおもひ    惟然
 (朝霞生捕れたるものおもひ琴ならひ居る梅の静さ)

と、「生捕れたる」で売られてきた遊女の身に転じる。お座敷に出るために琴を習う。遊女の多くは親が売ったり、借金のかたに取られた債務奴隷だったと思われるが、稀に拉致されて遊女になった者もいたのだろう。
 まあ、親が売り渡したのを本人に知らせてなければ、娘は一方的に拉致されたと証言するかもしれないが。

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