2021年10月28日木曜日

 今日は朝から天気がよく、つきみ野の大和市観光花農園のコスモスを見に行った。久しぶりに電車に乗った。
 帰りは中央林間に出て、モンシェリーのたぬきケーキを買った。
 岩波の『古浄瑠璃 説教集』の「阿弥陀の胸割」を読んだ。胸を割って臓器を摘出するという話になると、今の中国のことがすぐに連想されてしまうが、是は扨置。
 弟の「氏」のために姉が犠牲になるというパターンは、この時代の深い問題を含んでいたことは十分想像できる。すくなくともその犠牲を仏さまが望まない、ここが大事なんだと思う。
 悪に対しては仏さまは鬼を使役してでも報復する。近代では国家権力の暴力装置がこれを行うことになるわけだが。
 安達ヶ原の黒塚の話は前にも書いたが、病気を治すのに生き胆を求めるという発想は、薬にして飲む話になっているが、臓器移植を連想させる。「延命水といふ酒にて七十五度洗い清て」とあるのも、アルコール消毒と思われる。
 臓器が駄目になったなら移植すればいいという発想は、案外古くからあって、実際に試みられたことがあったのかもしれない。
 「牛王の姫」は拷問の残虐さがテーマか。「十日に十をの指を捥がれ、廿日に廿の身を砕かれ」は、似たようなのが月夜涙さんの『回復術士のやり直し』にもあったが、やはり本物の中世は違う。

 翌日六日にも如意寺如風亭で「翁草」の巻を興行する。
 まずは脇で、

   めづらしや落葉のころの翁草
 衛士の薪と手折冬梅       芭蕉
 (めづらしや落葉のころの翁草衛士の薪と手折冬梅)

 旅だと珍しいゲストを迎えた時の挨拶の句が増えて来る。そういうわけで、芭蕉も寓意で応じる場面が増えて来る。
 ここでは、翁草だと思ったのは衛士が焚き木にしようとして折った寒梅のことでしょう、と受ける。世間から見捨てられた世捨て人ですよ、といったところか。
 衛士というと、

 みかきもり衛士の焼火の夜はもえ
     昼は消つつ物をこそおもへ
             大中臣能宣(詞花集)

の歌が『小倉百人一首』でも有名だ。「衛士」はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、

 「古代,律令の兵制において,諸国の軍団から選ばれて1年 (のち3年) 交代で上京し,衛門府,衛士府に配属され,宮門の警衛にあたった者。」

とある。
 十二句目も俳言がなく、連歌のような句を付けている。

   白雲をわけて故郷の山しろし
 はなてる鶴の鳴かへる見ゆ    芭蕉
 (白雲をわけて故郷の山しろしはなてる鶴の鳴かへる見ゆ)

 白雲を分けて飛んで行く放たれた鶴とする。
 十九句目も謡曲で付ける。

   痩たる馬の春につながる
 米かりに草の戸出る朝がすみ   芭蕉
 (米かりに草の戸出る朝がすみ痩たる馬の春につながる)

 謡曲『鉢木』のあの「いざ鎌倉」の落ちぶれた武士であろう。謡曲では冬で秋に収穫した粟を食っていたが、それも底をつきたか、春には米を借りに行く。
 二十八句目。

   柱引御代のはじめのうねび山
 ささらにけづる伊勢の浜竹    芭蕉
 (柱引御代のはじめのうねび山ささらにけづる伊勢の浜竹)

 「伊勢の浜竹」はよくわからない。「難波の葦は伊勢の浜荻」をもとにして作った造語で、都では別の竹の名称があるということか。ささらは掃除をするわけではないだろう。楽器のささらで、即位を祝ってささらの舞を奉納したということか。田楽や神楽などの古い芸能にはささらが用いられる。
 伊勢と言うと伊勢踊りがある。コトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」に、

 「伊勢参宮信仰に伴って近世初頭に流行した風流踊(ふりゅうおどり)。庶民の伊勢参宮流行の歴史は934年(承平4)の記録までさかのぼるが、1614年(慶長19)に大神宮が野上山に飛び移ったという流言がおこって、にわかに伊勢踊が諸国に流行した。この爆発的流行に翌年には禁令も出された。1635年(寛永12)に尾州徳川家から将軍家光の上覧に供した伊勢踊は、裏紅の小袖(こそで)に、金紗(きんしゃ)入りの緋縮緬(ひぢりめん)の縄帯(なわおび)、晒(さらし)の鉢巻姿の、日の丸を描いた銀地扇を持った集団舞踊で、「これはどこの踊 松坂越えて 伊勢踊」などの歌詞が歌われている。1650年(慶安3)にお陰参りが始まるまでが、伊勢の神を国々に宿次(しゅくつぎ)に送る神送りの踊りとしての伊勢踊の流行期であった。現在は伊豆諸島の新島(にいじま)や愛媛県八幡浜(やわたはま)市などに残存している。[西角井正大]」

とある。
 この伊勢踊りに用いるささらであろう。

 貞享四年十一月七日では尾張鳴海の安信亭で興行を行う。発句は『笈の小文』にも収められたこの句だ。

 星崎の闇を見よとや啼千鳥    芭蕉

 七日は半月。夜半近くになると月も沈み闇となる。冬の寒々とした夜に鳴く千鳥の声は、あたかもこの闇を見よと言っているように聞こえる。
 十二句目。

   籾臼の音聞ながら我いびき
 月をほしたる螺の酒       芭蕉
 (籾臼の音聞ながら我いびき月をほしたる螺の酒)

 螺は法螺貝。法螺貝に酒を汲んで月を飲み干すだなんて、それ自体が法螺だ。まあ、籾臼の傍で鼾かいて寝ている人の夢ということだろう。
 越人ならそのままの意味になりそうだが、芭蕉さんの場合は上戸になった夢でも見たか。
 二十句目。

   辛螺がらの油ながるる薄氷
 角ある眉に化粧する霜      芭蕉
 (辛螺がらの油ながるる薄氷角ある眉に化粧する霜)

 田螺にはカタツムリのような角がある。そこに霜が降りかかり、化粧したみたいになる。前句の「薄氷」から冬の景とする。穏やかな句が続く。
 二十七句目。

   あさくさ米の出る川口
 欄干に頤ならぶ夕涼       芭蕉
 (欄干に頤ならぶ夕涼あさくさ米の出る川口)

 前句の「あさくさ米」は浅草御蔵に集められた御蔵米で、武士の給料はここから支払われる。ただ、ここではその支給日には関係なく、すぐ近くにある両国橋の情景を付ける。夏になると夕涼みの人で賑わった。
 頤(おとがい)はあごのことだが、欄干から川の方へ身を乗り出していると頤を突き出すような姿勢になる。特に舟か河原の方から見上げると顎ばかりが目立つ形になる。なかなか面白い描写だ。

 十一月二十四日には新しくなった熱田神宮に詣でて、桐葉との両吟歌仙を興行する。
 発句は、

   ふたたび御修覆なりし熱田の社にまうでて
 磨なをす鏡も清し雪の花     芭蕉

で、それに桐葉が、

   磨なをす鏡も清し雪の花
 石敷庭のさゆるあかつき     桐葉
 (磨なをす鏡も清し雪の花石敷庭のさゆるあかつき)

の脇を付けて、 玉砂利を敷き詰めた広い境内も雪で真っ白で、身が引き締まるような寒さの明け方ですね、と和す。
 四句目はわかりにくいが経済ネタになる。

   時々は松笠落る風やみて
 我がはとかへる山のかげろひ   芭蕉
 (時々は松笠落る風やみて我がはとかへる山のかげろひ)

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注は「夕暮れになって、風も落ち、山のかげる頃、自家の飼鳩が帰ってくる」としている。
 問題はこの「自家の鳩」だが、この時代伝書鳩があったのかどうかだ。
 ウィキペディアには、

 「日本には、カワラバトは飛鳥時代には渡来していた。伝書鳩としては江戸時代に輸入された記録があり、京阪神地方で商業用の連絡に使われた。大坂 - 大津間の米取引で大津の米商は大坂の米価の情報を早く掴むことを競っており、大坂 - 大津間では旗や幟を使った通信が盛んに行われていた。幕府は何度も旗や幟による通信の禁令を出したが、時代が下ると鳩による通信も禁令に加えられており伝書鳩も用いられていたことがわかっている。1783年に大阪の相場師・相模屋又八が投機目的で堂島の米相場の情報を伝えるために伝書鳩を使ったのを咎められ、幕府に処罰されている。」

とある。
 まあ、わりかし最近でもコンマ何秒を争う株式相場のために証券取引市場まで山を越える専用の回線を敷いた投資家がいたから、昔の人がいち早く相場を知るのに伝書鳩を使ったというのはわかる。杜国のところに鳩がいたのかもしれない。今のような競技会が行われていて趣味で鳩を飼うということではなかったと思う。
 となると、この句は相場師の句であろう。前句の「風やみて」を夕凪とし、山が陰る頃に鳩が帰ってきたとする。
 八句目。

   肌寒くならはぬ銭を襟にかけ
 こぼるる鬢の黒き強力      芭蕉
 (肌寒くならはぬ銭を襟にかけこぼるる鬢の黒き強力)

 強力(がうりき)はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、

 「山伏,修験者 (しゅげんじゃ) に従い,力役 (りょくえき) をつとめる従者の呼称。修験者が,その修行の場を山野に求め,長途の旅を続けたところから,その荷をかついでこれに従った者。中世になると社寺あるいは貴族に仕え,輿 (こし) をかつぐ下人をも強力と称した。現在では,登山者の荷物を運び,道案内をする者を強力と呼ぶが,これは日本の登山が,修験者の修行に始ることに由来する。」

とある。
 慣れない銭をたくさん持っての旅を修験者の旅として強力を付ける。
 十二句目。

   古畑にひとりはえたる麦刈て
 物呼ぶ声や野馬とるらむ     芭蕉
 (古畑にひとりはえたる麦刈て物呼ぶ声や野馬とるらむ)

 古畑で麦を刈っていると、近くの放牧場から大声で何かを呼ぶ声がする。放牧されている馬を捕まえようとしているのだろう。放牧馬はしばしば放置されて半野生化することもある。
 十八句目は二句一章の和歌の用の句だ。

   此塚の女は花の名におられ
 ただ泣がほをさけるつつじぞ   芭蕉
 (此塚の女は花の名におられただ泣がほをさけるつつじぞ)

 つつじは漢字で躑躅(てきちょく)と書くが、この字はもう一方で「足踏みする、ためらう」という意味がある。
 躑躅という花の名をもつ女の塚の前で、泣き顔を見せたくないと避けるに、咲けるを掛けて「つつじぞ」で結ぶ。和歌のような付け句だ。
 二十一句目は旅体の句。

   ゆらゆら下る坂の乗かけ
 水濁る一里の河原煩ひて     芭蕉
 (水濁る一里の河原煩ひてゆらゆら下る坂の乗かけ)

 この「て留」は前付けで「ゆらゆら下る坂の乗かけ、水濁る一里の河原煩ひて」と読む。坂を下って行ったら水が濁って増水しているのが見えて、これは川止めだ困ったということになる。
 二十五句目では奇抜な空想を見せる。

   勅衣をまとふ身こそ高けれ
 鰐添て経つむ船を送るかと    芭蕉
 (鰐添て経つむ船を送るかと勅衣をまとふ身こそ高けれ)

 鰐(わに)は神話に登場する動物で、海の道を作ったり塞いだりする。鰐が水の上に並んで人を渡らせる物語は世界各地に存在するらしい。
 記紀神話の「和邇」は近年サメのことだとする説もあるが、ウィキペディアによると、

 「平安時代の辞書『和名類聚抄(和名抄)』には、麻果切韻に和邇は、鰐のことで、鼈(スッポン)に似て四足が有り、クチバシの長さが三尺、甚だ歯が鋭く、大鹿が川を渡るとき之を中断すると記してあるとある。和邇とは別の鮫の項には、「和名 佐米」と読み方が記され、「さめ」と読む「鮫」という字が使われ始めた平安時代において、爬虫類のワニのことも知られていたことを示す。和漢三才図会の鰐の項では、和名抄には蜥蜴に似ると記されているとある。」

 『和漢三才図会』は芭蕉の時代より少し後だが、この時代の人は見たことはなくても鰐と鮫は別のもので、神話や説話に登場する謎の生き物という認識だったのではないかと思う。「麒麟」や「獅子」のようなものではなかったかと思う。
 鰐が水路を開いたり閉じたりする存在であれば、その鰐を味方につけて経を積んだ船の無事を願うのは、当時の人の発想としてやや突飛だがありそうな、という微妙なところをついていて、ネタとして面白かったのだと思う。
 二十七句目も、礒に松は月並みなパターンだが、それを強引に恋に持って行く。

   塩こす岩のかくれあらはれ
 打ゆがむ松にも似たる恋をして  芭蕉
 (打ゆがむ松にも似たる恋をして塩こす岩のかくれあらはれ)

 岩の上に長年の風雨波浪に耐えて幹の曲折した松のように、長年に渡って苦悩の中で待ち続ける恋をする老婆がいる。『古事記』の赤猪子の俤もあるのかもしれない。日本人の松の枝ぶりに関する美学の根源といえよう。
 二十九句目も恋の句になる。

   縣の聟のしり目なる月
 秋山の伏猪を告る声々に     芭蕉
 (秋山の伏猪を告る声々に縣の聟のしり目なる月)

 前句の「縣の聟」を田舎の婿の意味にする。畑を荒らす害獣が見つかったというのに、庄屋の娘婿は知らん顔。非力な色男というところか。
 両吟だと詠む句も多く、芭蕉もここでは多彩な付け句を見せてくれている。 

 十一月二十六日には名古屋の荷兮亭で、『冬の日』のメンバーと再会を果たす。このときは越人も加わる。また、岐阜から来た落梧も加わり、賑やかな興行になる。
 芭蕉はまず脇を付ける。

   凩のさむさかさねよ稲葉山
 よき家続く雪の見どころ     芭蕉
 (凩のさむさかさねよ稲葉山よき家続く雪の見どころ)

 落梧の木枯らしの旅を重ねて稲葉山まで来てくださいという発句に、立派な家並の続く良い所で雪見するのにも良いと聞いています、と答える。
 落梧の家が岐阜で代々続く豪商だということを聞いていたのだろう。
 敦賀の方に高い山がないため、日本海の方からやってくる雪雲は伊吹山に大雪を降らせる。昭和二年二月十四日には十一メートル八十二センチの積雪が観測されたという。岐阜からだとこの伊吹山が良く見える。
 越人は四句目に登場する。

   鵙の居る里の垣根に餌をさして
 黍の折レ合道ほそき也      越人
 (鵙の居る里の垣根に餌をさして黍の折レ合道ほそき也)

 黍は風で折れやすい。黍畑の横の道を通ると黍が倒れて邪魔になっているのは「あるある」だったのだろう。狭い道では両方から黍が折れて道を塞いでしまう。
 前句の鵙の居る里を、米の取れない山里とした。
 芭蕉の九句目。

   芥子など有て竹痩し村
 被とる顔色白くおとろへて    芭蕉
 (被とる顔色白くおとろへて芥子など有て竹痩し村)

 前句は薬用の芥子を栽培している津軽地方で、竹も北限になり痩せているという句だった。
 これに薬を求めてやって来た「顔色白くおとろへ」た病人を付ける。
 二十句目は

   青々と動かぬ石の長閑にて
 酔てまたぬる此橋のうへ     芭蕉
 (青々と動かぬ石の長閑にて酔てまたぬる此橋のうへ)

と、前句の長閑な景に、橋の上で寝込んでいる酔っ払いを付ける。紺の着物を着ていたのだろう。

0 件のコメント:

コメントを投稿