今日も朝から晴れだが、時折雲が多くなる天気だった。昨日は長月十五夜の満月がよく見えた。
生田緑地ばら苑に行った。平日なのでそれほど混んでなかった。
コロナ明けでいろいろなところ行ってみたいけど、株は下がるしガソリンは高いしで、まだまだご近所散歩か。
あと、「狂句こがらし」の巻やり直しバージョンと、貞享四年冬の「霜冴て」の巻を鈴呂屋書庫にアップしたのでよろしく。これで『校本芭蕉全集』の三巻から五巻の半歌仙以上の俳諧をコンプリートしたことになる。まあ、存疑の部は残っているが。
昨日の続き。
この年(貞享元年)の十二月十九日に熱田で船遊びをする。この日の夜の興行であろう。発句は、
海くれて鴨の声ほのかに白し 芭蕉
で、これに、
海くれて鴨の声ほのかに白し
串に鯨をあぶる盃 桐葉
の脇でもって始まる。
十四句目で、
笠敷て衣のやぶれ綴リ居る
あきの烏の人喰にゆく 芭蕉
(笠敷て衣のやぶれ綴リ居るあきの烏の人喰にゆく)
と、前句の旅人の句に、カラスが人を食いに飛んで行く、と付ける。
旅人から河原者に取り成したか。昔の河原には死体が打ち捨てられ、カラスがそれを啄ばみに来る。いわゆる「野ざらし」だ。
野ざらしを心に風のしむ身哉 芭蕉
の発句とともに旅発ったことが思い起こされる。
二十二句目。
木の間より西に御堂の壁白く
藪に葛屋の十ばかり見ゆ 芭蕉
(木の間より西に御堂の壁白く藪に葛屋の十ばかり見ゆ)
「葛屋(くずや)」は草葺屋根の家のこと。白壁のお堂を西にして、薮の中には粗末な草ぶき屋根の家が十ばかり見える。これも部落を連想させる。
二十五句目の、
京に名高し瘤の呪詛(まじなひ)
富士の根と笠きて馬に乗ながら 芭蕉
(富士の根と笠きて馬に乗ながら京に名高し瘤の呪詛)
は、『冬の日』の「狂句こがらし」の発句に登場した薮薬師の竹齋の連想を誘う。
「富士の根」は「富士の峰(ね)」のこと。
時知らぬ山は富士の嶺いつとてか
鹿の子まだらに雪の降るらむ
在原業平(新古今集)
の歌も「富士の嶺(ね)」と読む。
この業平の歌は仮名草子『竹斎』でも引用されていているところから、前句の「京に名高し瘤の呪詛」に竹斎の姿をイメージしたと思われる。竹斎は京に名高い「やぶくすし」(ただし似せ物)を名乗っている。
後の許六編『風俗文選』に収録されている汶村の『藪醫者ノ解』に、薮医者は元は名医だったが、その名声が世間に広まるにつれて薮医者を名乗る偽物がたくさん現れ、その結果偽物の医者のことを薮医者と呼ぶようになった、とある。
翌年の三月二十七日にふたたび熱田にやって来た時に、
何とはなしに何やら床し菫草 芭蕉
を発句とする芭蕉・叩端・桐葉による三吟歌仙が巻かれている。
四句目の、
田螺わる賤の童のあたたかに
公家に宿かす竹の中みち 芭蕉
(田螺わる賤の童のあたたかに公家に宿かす竹の中みち)
は、王朝時代趣味ではなく、公家の現実を詠んだ句であろう。
江戸時代のお公家さんは石高も低く抑えられていた。一説には公家の九割は三百石以下だったともいう。
元禄三年二月十日、鬼貫等の大阪談林系の俳諧「うたてやな」の巻の三十五句目にも、
金乞ウ夜半を春にいひ延
どれ見ても一かまへあるお公家たち 万海
と立派な家に住んではいても借金が返せず、期限を延ばしてくれというネタがあった。
旅に出ても山奥の寺の宿坊などに泊まり、竹藪の奥へ行ったのだろう。
七句目は人情ネタ。
酒飲む姨のいかに淋しき
双六のうらみを文に書尽し 芭蕉
(双六のうらみを文に書尽し飲む姨のいかに淋しき)
爺が博奕にはまってしまい、その恨みを延々と書き綴った文が息子の所に届く。字が乱れていて、相当酔っぱらってるんだろうな。昔も今も博奕狂いというのは困ったもんだ。
人生は少なからず博奕の要素がある。誰だって未来のことなどわからない、人生は日々是ガチャのようなもので、いつ外れくじを引くかわからない。だから、リスクをあらかじめ読み込んで対処しなくてはならない。博奕にはまるというのは、ある意味でそういう現実のギャンプルから目を背けているのだろう。
十句目は王朝時代の「侍従」の登場する句に付けたもので、
髪下す侍従が娘おとろへて
野々宮のあらし祇王寺の鉦 芭蕉
(髪下す侍従が娘おとろへて野々宮のあらし祇王寺の鉦)
と、かつては伊勢神宮に奉仕する斎王が伊勢に向う前に潔斎をした、京都嵯峨野にある野宮(ののみや)神社に展開する。
こういう古典ネタはこの時期は頻繁に登場する。
十三句目。
芸者をとむる名月の関
面白の遊女の秋の夜すがらや 芭蕉
(面白の遊女の秋の夜すがらや芸者をとむる名月の関)
これは。前句の芸者を遊女とするものだが、言葉の方で、
「遊楽の夜すがらこれ、采女の戯れと思すなよ。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.22886-22889). Yamatouta e books. Kindle 版. )
という謡曲『采女』の遊楽の「夜すがらや」を用いていて、こうした謡曲の言葉の使用は談林時代に多用され、『奥の細道』の旅で、
あな無残やな甲の下のきりぎりす 芭蕉
と呼んだ頃まで残って行くことになる。
十六句目も、謡曲の言葉は使ってないが、謡曲を本説としている。
川瀬行髻を角に結分て
舎利とる滝に朝日うつろふ 芭蕉
(川瀬行髻を角に結分て舎利とる滝に朝日うつろふ)
これは謡曲『舎利』で、
「都・泉涌寺に保管された仏舎利を足疾鬼が奪い取って逃げると、韋駄天が追っ駈けて取り戻す。それを泉涌寺 参拝の旅僧の幻想として描き出す。](野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.77506-77509). Yamatouta e books. Kindle 版. )
という能の、泉涌寺の湧き水を滝に変えて本説で付ける。舎利は無事に取り戻されて朝日が射す。
二十二句目。
聞なれし笛のいろえの遠ざかり
三ッ股のふね深川の夜 芭蕉
(聞なれし笛のいろえの遠ざかり三ッ股のふね深川の夜)
「三ッ股」は隅田川、小名木川、箱崎川の分かれる場所で「三つまたわかれの淵」と呼ばれていた。深川芭蕉庵もこの近くにあった。
夜になると舟遊びをする人たちの乗った船の笛の音が聞こえてきたのだろう。芭蕉にとっては聞きなれた笛だったか。旅の空で、江戸を思い出していたのかもしれない。
二十五句目。
花幽なる竹こきの蕎麦
いかに鳴百舌鳥は吹矢を負ながら 芭蕉
(いかに鳴百舌鳥は吹矢を負ながら花幽なる竹こきの蕎麦)
鵙は食用にされ、「鵙落とし」という目を潰した囮の鵙を使う猟もあった。吹矢の鵙猟もあったのだろう。蕎麦を食べて精進していても、隣では吹矢を負った鵙が鳴いている。
こういう殺生を廻るネタは俳諧では多い。殺生はいけない。でもみんなそのお世話になっている。その矛盾した感情を俳諧は両方を肯定する形で描き、しばしば坊主も殺生をやっているだとか、動物は行けなくて植物は良いのかだとか、矛盾をそのまま表現するというのが基本であろう。
まあ、いつの時代にも今でいうビーガン原理主義者みたいのはいたのだろう。俳諧は理念ではなく情(こころ)を述ぶるなかだちで、理念に偏るものではない。
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