2021年10月27日水曜日

 岩波の『古浄瑠璃 説教集』の「さんせう太夫」を読む。
 これまでのような七五調の文体でなく、遊びのほとんどないハードモードだった。寛永の草子本が底本なので、琵琶法師の物語とはまた別なのだろう。
 中世の日本には下人という奴隷がいて、人身売買が行われていた。芭蕉の時代には過去のものになってはいたが、遊女の売買はまだ行わていた。
 キーワードを一つ言えば「女に氏はないぞやれ」であろう。江戸時代でも女性は名字で呼ばれることはなかった。田氏捨女は珍しく生涯田氏に縛られていたが、氏がないというのは両面性をもっていた。
 逃げたのが安寿姫だったなら、仇討の義務もなければお家の再興なんてことも考える必要はなかった。つし王丸だから、と思うと、『鬼滅の刃』の「長男だから」というのも、あの時代の設定なら炭次郎も氏を背負っているという意識があったのか。
 このあと森鴎外の『山椒大夫』を青空文庫で読んだが、だいぶイージーモードに書き直されていた。まあ、お伽話も時代が下れば下る程、みんないい人ばかり、残虐な人なんてどこにもいないみたいになってゆく。
 『回復術士のやり直し』も中世の人が読んだなら、これでもぬるいと言うだろうな。

 昨日の所でちょっと杜国のことに触れたが、今でも杜国の先物取引を非難する論者というのは、基本的に左翼なんだろう。経済音痴は左翼にとってはステータスになる。
 株に関しても、博奕だという風評を広めているのはこいつらだ。
 株の売買は二つの点で社会に貢献している。
 一つは企業の資金を提供することで企業活動を援助する。銀行預金と違って、投資する企業を選べるというのが大きい。銀行預金は間接投資になるので、投資する企業を選べない。
 もう一つは安く買って高く売ることで株価を適切な水準に調整するという役割がある。こちらの方は忘れられがちだが、いわゆる「神の見えざる手」の一翼を担う重要な役割だ。割安な株を買うことで株価を適正な価格にまで引き上げ、割高になった株を売ることで株価を適正な価格にまで引き下げる。これも大事な役割だ。
 キャピタルゲイン課税に関しては累進課税にするべきだと思う。零細な株主は非課税にしてほしい。個人株主の力を強くすれば、大資本の独占に対抗できる。

 貞享四年の冬の初めに、芭蕉はふたたび『笈の小文』の旅に出る。
 その旅の前に三つの餞別興行が行われる。
 まずは九月、露沾邸で餞別七吟歌仙が行われる。

 発句は、

   旅泊に年を越てよしのの花にこころせん事を申す
 時は秋吉野をこめし旅のつと   露沾

で、これに芭蕉はこう答える。
 脇。

   時は秋吉野をこめし旅のつと
 鳫をともねに雲風の月      芭蕉
 (時は秋吉野をこめし旅のつと鳫をともねに雲風の月)

 秋の旅なので「鳫(かり)」と仮寝をかけて「鳫をともね」と受けて、「風雲の月」を添える。雲も風も定めなきというところで、予定を明確に定めずにという意味も込められている。
 七句目。

   をろさぬ窓に枝覗く松
 傘の絵をかくかしらかたぶけて  芭蕉
 (傘の絵をかくかしらかたぶけてをろさぬ窓に枝覗く松)

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注に「絵日傘に描く絵」とある。
 「洋がさタイムズ」というサイトによると、貞享の頃、江戸・京・大阪で絵日傘が流行したという。
 「日本傘略年表 - ミツカン水の文化センター」のページにもこの頃婦女子の間で絵日傘が流行したとある。当世流行のネタだった。
 唐傘に絵付けをしている職人は頭を傾けて、窓の外の松の枝を見る。松の枝を描いているのだろうか。
 十四句目は恋の句。

   恋を断ッ鎌倉山の奥ふかし
 しぼるたもとを匂ふ風蘭     芭蕉
 (恋を断ッ鎌倉山の奥ふかししぼるたもとを匂ふ風蘭)

 風蘭(ふうらん)は富貴蘭ともいう。ウィキペディアには、

 「フウランは、日本特産のラン科植物で、樹木の上に生育する着生植物である。花が美しく、香りがよいことから、古くから栽培されたものと考えられる。その中から、姿形の変わったものや珍しいものを選び出し、特に珍重するようになったのも、江戸時代の中頃までさかのぼることができる。文化文政のころ、一つのブームがあったようで、徳川十一代将軍家斉も愛好し、諸大名も盛んに収集を行なっていたと言う。」

とある。芭蕉も先見の明があったものだ。
 前句の鎌倉山で恋を断つというのは、縁切寺として有名な東慶寺のことであろう。
 悲しみに涙流した袖を絞ると、蘭の香がする。
 蘭といえば山中にひっそりと暮らす君子の心で、貞淑さを表す。『野ざらし紀行』の旅で、

 蘭の香やてふの翅にたき物す   芭蕉

の句を詠んでいる。
 二十一句目は隠士の心。

   磬うつかたに鳥帰る道
 楢の葉に我文集を書終り     芭蕉
 (楢の葉に我文集を書終り磬うつかたに鳥帰る道)

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注に、

 「寒山が興に乗じて落葉に詩を録し、後人それによって寒山集を編んだという故事による。」

とある。この話は芥川龍之介の『芭蕉雑記』にも、

 「寒山は木の葉に詩を題した。が、その木の葉を集めることには余り熱心でもなかったやうである。芭蕉もやはり木の葉のやうに、一千余句の俳詣は流転に任せたのではなかったであらうか?少くとも芭蕉の心の奥にはいつもさう云ふ心もちの潜んでゐたのではなかったではないか?」

とある。なお『寒山子詩集』の序には「唯於竹木石壁書詩」とあるが「葉」とは書いていない。竹や木や石や壁に書いたものは普通に後に残せるが、葉だと押し葉標本のように乾燥させる必要がある。
 日本語だと「このは」が「ことのは」に似ているというのもあるのだろう。前句を山深い庵としての展開になる。

 貞享四年十月十一日、其角亭での世吉(四十四句)興行はあの有名な発句で始まる。

   十月十一日餞別會
 旅人と我名よばれん初霽     芭蕉

 この句は『笈の小文』にも収録される。
 十二句目。

   酒のみにさをとめ達の並ビ居て
 卯月の雪を握るつくばね     芭蕉
 (酒のみにさをとめ達の並ビ居て卯月の雪を握るつくばね)

 いくら江戸時代が寒冷期だといっても、さすがに旧暦四月の標高八七七メートルの筑波山に雪はなかっただろう。これは、

 花は皆散りはてぬらし筑波嶺の
     木のもとごとにつもる白雪
              法眼兼譽(続千載集)

だったのではないか。
 あるいは卯月の雪は卯の花の花びらだったのかもしれない。筑波山の見える所で田植をしていると、苗と一緒に卯の花の花びらをつかむことになる。打越に松があるので卯の花は出せないため、あえて卯の花を抜いたのであろう。

 続く十月二十五日にも、芭蕉・其角・嵐雪・濁子の四吟半歌仙興行が行われている。
 発句は、

 江戸桜心かよはんいくしぐれ   濁子

と、吉野の桜を見に行く芭蕉に対し、吉野の桜も江戸の桜も心は同じだ。われわれも芭蕉さんが吉野の桜を見ているときには江戸の桜を見て、同じ桜を楽しむことにしよう。それまで、いくつ時雨に降られることかと詠む。
 旅に出なくても心はいつも一緒だよ、と言って送り出す。
 これに芭蕉の脇はこう答える。

   江戸桜心かよはんいくしぐれ
 薩埵の霜にかへりみる月     芭蕉
 (江戸桜心かよはんいくしぐれ薩埵の霜にかへりみる月)

 薩埵峠を越える時には江戸の方を振り返って月を見ることになるだろう。薩埵峠で東を見れば、月だけでなく富士山の雄大な姿も見える。
 十三句目は恋からの転換。

   夢を占きく閨の朝風
 津の国のなにはなにはと物うりて 芭蕉
 (津の国のなにはなにはと物うりて夢を占きく閨の朝風)

 『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の注は、

 津の国の難波の春は夢なれや
     葦の枯葉に風わたるなり
              西行法師

の歌を引用している。前句の「夢」からこの歌の縁で「難波」に展開する。
 ただ、昔は葦原だった難波もこの時代は巨大な商業都市。朝風に聞こえてくるのは物売りの声。難波と「何は何は」を掛けている。
 十七句目は花の定座。

   苗代もえる雨こまか也
 鷺の巣のいくつか花に見えすきて 芭蕉
 (鷺の巣のいくつか花に見えすきて苗代もえる雨こまか也)

 鷺はウィキペディアに、

 「巣は見晴らしの良い高木性の樹の上に設け、コロニーを形成する。コロニーにおいては、特定の種が固まる性質はなく、同じ木にダイサギとコサギが巣をかけることも珍しくはない。コロニーは、天敵からの攻撃を防ぐために、河川敷などが選ばれることが多いが、近年は個体数の増加から、寺社林に形成する例も増え、糞害などが問題とされることがある。」

とある。
 筆者がよく仕事で通った埼玉県吉川市の中川沿いにも、大量の白鷺の集まる場所がある。さすがに花と見間違うことはないが、白鷺の群れの中に白い昔ながらの山桜があれば、「おきまどわせる白菊の花」のようで面白いかもしれない。

 貞享四年十月二十五日芭蕉は旅立ち、十一月四日には尾張鳴海の知足亭に到着する。そして翌十一月五日には同じ鳴海の菐言亭で興行を行う。
 発句は、

 京まではまだなかぞらや雪の雲  芭蕉

だった。
 十句目。

   わたり舟夜も明がたに山みえて
 鐘いくところにしかひがしか   芭蕉
 (わたり舟夜も明がたに山みえて鐘いくところにしかひがしか)

 明け方に鐘が鳴るが、それは西か東か、というわけだが、この年の春に詠んだ、

 花の雲鐘は上野か浅草か     芭蕉

とややかぶっている。隅田川の渡し船に上野か浅草の鐘の音が聞こえてくる情景を、どことも知れぬ山に近い渡し場に変えたというところか。
 十三句目。

   なみだをそへて鄙の腰折
 髪けづる熊の油の名もつらく   芭蕉
 (髪けづる熊の油の名もつらくなみだをそへて鄙の腰折)

 熊の油はマタギの人たちが古くから用いていたという。ただ、髪に使ったりはしないだろう。どんな田舎者かというギャグ。『伊勢物語』第十四段の「くたかけ」女のイメージか。
 二十句目。

   うき年を取てはたちも漸過ぬ
 父のいくさを起ふしの夢     芭蕉
 (うき年を取てはたちも漸過ぬ父のいくさを起ふしの夢)

 前句を戦死した父の喪に服しているので「うき年を取て」とする。
 俳諧では軍記物などの趣向で軍の場面を付けることも多いが、基本的には軍(いくさ)は悲しいもので、天下泰平を願う心を込めるのが風流の心と言えよう。古今集仮名序の「たけきもののふのこころをなぐさめ」の伝統だ。

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