今日も晴れてやや暑くなった。穏やかな一日だ。
日本のコロナの第五波が収まったのは、ワクチン接種が進んだこととみんながきちんと自粛してくれたことが原因で、別に何一つ不思議なことではない。欧米やイスラエルはワクチン接種は進んだが、マスクを外して元の生活に戻してしまったから感染が拡大した。日本はワクチンと自粛を同時にやったから収まった。それだけのことだ。
オリンピックでメダルを取る日本人も凄いし、ノーベル賞を取る日本人も凄いが、本当に凄いのは日本の平均的なごく普通の庶民のレベルの高さだと思う。みんな有難う。よく戦った。
それでは「八人や」の巻の続き。挙句まで。
二裏、三十七句目。
ベウタレ青き苔の小筵
相住の比丘尼道心軒ふりて 如風
相住(あひずみ)は同居のこと。女性の一人住まいは危険が多いので、比丘尼は他の比丘尼と相住することが多かったのだろう。前句をその比丘尼の庵での食事とする。
三十八句目。
相住の比丘尼道心軒ふりて
男悪みやさられたるなんど 仙菴
「悪み」は「にくみ」。比丘尼の出家の原因は男運のなさのようだ。
三十九句目。
男悪みやさられたるなんど
あだし恋気随意何れの時にか有けん 政定
気随意(きずい)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「気随」の解説」に、
「〘名〙 (形動) 自分の気持、気分のままにふるまうこと。また、そのさま。気まま。
※虎明本狂言・髭櫓(室町末‐近世初)「あまりきずいにあたった程に、ちとならはかひておじゃる」
※温泉宿(1929‐30)〈川端康成〉秋深き「気随に隣り村の自分の家へ帰ったり」
とある。
実りのない恋で意のままになったためしがない。
四十句目。
あだし恋気随意何れの時にか有けん
朝政手代まかせに 正長
朝政は「アサマツリゴト」とルビがふってある。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「朝政」の解説」に、
「[一] (「ちょうせい(朝政)」の訓読)
① 天皇が朝早くから正殿に出て、政務をとること。また、天皇が行なう政治。朝廷の政務。
※源氏(1001‐14頃)桐壺「朝に起きさせ給とても、〈略〉猶、あさまつりごとは、怠らせ給ひぬべかめり」
② 朝廷の官人たちが、朝早くから政務にあたること。
※今昔(1120頃か)二七「今は昔、官の司に朝庁(あさまつりごと)と云ふ事行ひけり」
[二] (朝祭事) 朝、男女がまじわりをすること。
※咄本・鹿の子餠(1772)豆腐屋「まい朝早起して、夫婦名だいのもろかせぎ。しかるに起た時分、一朝もかかさずに朝(アサ)まつりごと」
とある。[二]の意味であろう。前句の「何れの時にか有けん」を受けて、あだし恋を朝から気随に情事に耽る。仕事は手代任せということか。
手代はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「手代」の解説」に、
「① 人の代理をすること。また、その人。てがわり。
※御堂関白記‐寛弘六年(1009)九月一一日「僧正奉仕御修善、手代僧進円不云案内」
※満済准后日記‐正長二年(1429)七月一九日「於仙洞理覚院尊順僧正五大尊合行法勤修云々。如意寺准后為二手代一参住云々」
② 江戸時代、郡代・代官に属し、その指揮をうけ、年貢徴収、普請、警察、裁判など民政一般をつかさどった小吏。同じ郡代・代官の下僚の手付(てつき)と職務内容は異ならないが、手付が幕臣であったのに対し、農民から採用された。
※随筆・折たく柴の記(1716頃)中「御代官所の手代などいふものの、私にせし所あるが故なるべし」
③ 江戸幕府の小吏。御蔵奉行、作事奉行、小普請奉行、林奉行、漆奉行、書替奉行、畳奉行、材木石奉行、闕所物奉行、川船改役、大坂破損奉行などに属し、雑役に従ったもの。
※御触書寛保集成‐一八・正徳三年(1713)七月「諸組与力、同心、手代等明き有之節」
④ 江戸時代、諸藩におかれた小吏。
※梅津政景日記‐慶長一七年(1612)七月二三日「其切手・てたいの書付、川井嘉兵へに有」
⑤ 商家で番頭と丁稚(でっち)との間に位する使用人。奉公して一〇年ぐらいでなった。
※浮世草子・好色一代男(1682)一「宇治の茶師の手代(テタイ)めきて、かかる見る目は違はじ」
⑥ 商業使用人の一つ。番頭とならんで、営業に関するある種類または特定の事項について代理権を有するもの。支配人と異なり営業全般について代理権は及ばない。現在では、ふつう部長、課長、出張所長などと呼ばれる。〔英和記簿法字類(1878)〕
⑦ 江戸時代、劇場の仕切場(しきりば)に詰め、帳元の指揮をうけ会計事務をつかさどったもの。〔劇場新話(1804‐09頃)〕」
とある。⑤か⑥であろう。
この句と前句の間の上の所に「足」とある。お足は「手代まかせ」ということか。
四十一句目。
朝政手代まかせに
はしたなく御格子明させ店はかせ 常之
店は「タナ」で、手代に格子を開けさせ店を掃かせる。
前句の「朝政」に天皇の政務というもう一つの意味があることから、商家の格子なのだけどあえて天皇の寝殿を意味する「御格子」とする。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「御格子」の解説」に、
「① 格子、格子戸を尊んでいう語。
※大和(947‐957頃)一二五「みかうしあげさわぐに壬生忠岑御供にあり」
② (①を下ろして寝るところから) 天皇がおやすみになること。御寝。
※浄瑠璃・惟喬惟仁位諍(1681頃)二「其夜も更けゆきてみかうしならせ給ひければ諸卿残らず退出し」
とある。
四十二句目。
はしたなく御格子明させ店はかせ
隣の神も凉みやらぬかと 如泉
前句の「御格子」を神社の格子とする。神様も暑くて戸をあけっぱなしにする。
四十三句目。
隣の神も凉みやらぬかと
肥肉の大黒殿や寐ぐるしき 信徳
肥肉は「コエジジ」とルビがある。太った爺さんのこと。七福神の中でも恵比須、大黒、布袋は太っている。大黒様も暑くて寝られない。
四十四句目。
肥肉の大黒殿や寐ぐるしき
いか程過し飯もりの山 如風
どれほど山盛りの飯を食えばあんな太れるのか。
四十五句目。
いか程過し飯もりの山
跡の峯早道人にこととはん 清澄
前句の飯盛山は若狭と和歌山にある。若狭の方はウィキペディアに、
「小浜市飯盛地区から見える山容が周辺の山塊がお椀に見え、飯盛山が緩やかな飯を盛った形であるためその山名がついたとの由来がある。
山頂からの展望は西から青葉山、大島半島、小浜湾、久須夜ヶ岳、内外海半島、多田ヶ岳、頭巾山などが一望でき林道も山頂近くまで伸びており気軽に登れる。
また、古来より若狭三山(青葉山、多田ヶ岳、飯盛山)の一つとして修験道が盛んに行われていた。」
とある。
和歌山の方も葛城修験道の山でどちらも修験に関係がある。
前句の「飯もりの山」を修験の山とし、後から峯入りする人が先に行った人に近道がないか聞く。
四十六句目。
跡の峯早道人にこととはん
嵐に落る膓もちの鮎 政定
秋に川を下る落ち鮎のことで、「膓(わた)もち」は正確には卵持ちのことだ。
峯を下りた人が早く子持ち鮎を食べたいということか。
四十七句目。
嵐に落る膓もちの鮎
石川やそへ小刀の月さびて 仙菴
落ち鮎は体が赤くなるところから錆鮎とも言う。その姿が錆びた小刀のようでもあり、赤い三日月のようでもある。
四十八句目。
石川やそへ小刀の月さびて
君が代久し文台の露 信徳
石川と君が代は、
君が代も我が世もつきじ石川や
瀬見の小川の絶えじとおもへは
源実朝(続古今集)
の歌の縁がある。
石川の月も暗く、王朝時代も遠い昔になり、文台には涙がこぼれる。
四十九句目。
君が代久し文台の露
挨拶を爰では仕たい花なれど 正長
一巻の興行の終わりでここでお別れの挨拶をしたい花の定座ではあるけれど、王朝時代も遠い昔となった文台の露のようなこの俳諧に。
五十韻一巻の終わりであるとともに、『俳諧七百五十韻』の締めくくりでもある。
挙句。
挨拶を爰では仕たい花なれど
又かさねての春もあるべく 常之
今はお別れだけど、また来る春もあるので、その時はまた会いましょう、ということで一巻および七百五十韻は目出度く終わる。
まあ、これで終わらなかった。『俳諧七百五十韻』を読んだ芭蕉はこう続ける。
五十一句目。
又かさねての春もあるべく
鷺の足雉脛長く継添て 桃青
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