2021年10月6日水曜日

 今日は生田緑地まで歩いた。夏に着た時とは鳥の声が違う。と言っても鳥の声に詳しいわけではないが、画眉鳥は申し訳程度に鳴いていたが、以前のけたたましさはない。
 金木犀がオリーブの仲間だというのを昨日初めて知った。日本の金木犀は雄木ばかりで挿し木で増やしているから、オリーブのような実がならないらしい。
 そういうわけで、今日から旧暦九月、晩秋。時が経つのが早い。
 真鍋さんのノーベル賞受賞ということで、そういえば子供の頃から地球温暖化のことが言われてたような気がする。ただ両論併記が義務付けられているせいか、かならず地球が小氷河期に入っているという説がセットになっていた。
 まあ、両論併記だから、ワクチンのニュースが出ると反ワクの主張がセットになるのか。ただ、両論併記をやめるというと反ワク一色のキャンペーンをやりかねないからこれでいいのだろう。今のマス護美が両論併記をやめたら、革命の扇動へ一直線に邁進しそうだ。
 まあ、それはそうと、元禄六年冬の「生ながら」の巻を鈴呂屋書庫にアップしたのでよろしく。

 元禄六年秋に芭蕉はお世話になっている小沢太郎兵衛得入(卜尺)や、おそらくその周辺の人達と歌仙一巻を興行する。
 その卜尺だが、十五句目で、

   精進あげの三位入道
 かかと寝て花さく事もなかりしに 卜尺
 (かかと寝て花さく事もなかりしに精進あげの三位入道)

と、「かかあと寝て何が嬉しいんだ」といかにもオヤジの言いそうなことだ。
 前句の「精進あげ」は精進の期間が終わっての肉・酒・性の解禁だから、最後の「性」を付ける。

 埋木の花咲くこともなかりしに
     身のなる果はあはれなりけり
               源頼政
という辞世の歌で、埋もれた木のように花さくこともなかった身を嘆く歌だが、それを本歌にしての付けになる。
 談林流の作法には従っているが、何とも品がない。
 ちなみに源三位の妻は源斉頼女(源斉頼の孫娘)だが、菖蒲御前という側室もいた。
 続く十六句目は、

   かかと寝て花さく事もなかりしに
 又孕ませて蛙子ぞなく     紀子
 (かかと寝て花さく事もなかりしに又孕ませて蛙子ぞなく)

 これは貧乏人の子沢山ということか。
 まあ、浮気するほどの金もなければ、男としてももてもせず、というところでせっせとかかあ相手に子作りに励み、あちこちで子供が泣いている。
 蛙子は「あこ」とも読めるので、「吾子」と掛けているのだろう。
 庶民のありがちなリアルな世界ではあるが、猥談の域を出るものではない。
 この二句の後、十七句を目芭蕉が付けるわけだが、その句は、

   又孕ませて蛙子ぞなく
 鶯の宿が金子をねだるらむ   桃青
 (鶯の宿が金子をねだるらむ又孕ませて蛙子ぞなく)

で、二句続いたオヤジギャグをどう収めるかというところだ。
 「鶯の宿」は、

 勅なればいともかしこしうぐひすの
     宿はと問はばいかが答へむ
            よみ人知らず(拾遺集)

という出典がある。これは御門の命令で梅の木を持ってかれてしまったときに、その家の女主人が木にこの歌を結び付けておいて、それを読んだ御門が梅の木を返すという物語だ。
 桃青の句の場合は、金子(きんす)を持って行こうとする亭主に女房が、「ほら、蛙子が泣いてるでしょ」とたしなめる場面にする。
 蛙と鶯は古今集仮名序の「花に鳴く鶯、水に住む蛙の声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける」の縁もある。
 前の二句を何とか人情ネタで、夫の浪費を戒める方向で収めている。
 こうした句は談林の一面ではあるが、そこからどう脱却していくかという所で、芭蕉の『次韻』へ向けての試行錯誤が続く。
 杉風との両吟百韻「色付や」の巻は年次がはっきりしないが、この頃と思われる。
 ただ、三十八句目では

   見わたせば雲ははがれて雪の峯
 松のふぐりに下帯もなし     桃青
 (見わたせば雲ははがれて雪の峯松のふぐりに下帯もなし)

と芭蕉もシモネタをやっている。
 松ぼっくりのことを昔は松ふぐりといった。「ふぐり」は金玉のことで、『新撰犬筑波集』でもさんざん言い古されたネタだが、あえてここで来るかという感じだ。
 富士山に松の木は近代の銭湯の壁にもよく描かれる定番だが。三保の松原のイメージだ。
 それにまた杉風も、

   松のふぐりに下帯もなし
 またもをかしう磯うつ浪の子安貝 杉風
 (またもをかしう磯うつ浪の子安貝松のふぐりに下帯もなし)

と続け、ふぐりに子安貝と下ネタで応じる。
 この巻はやはり伏字を使った、九十四句目、

   六度まで渡かねたる橋越て
 よしなき    千万      杉風
 (六度まで渡かねたる橋越てよしなき    千万)

の句に、九十五句目

   よしなき    千万
 夢なれや    夢なれや    杉風
 (夢なれや    夢なれやよしなき    千万)

と杉風が二句続けた場面だろう。興行の席では面白さの伝わりにくい、本にして、テキストとして読んだときの面白さを狙ったという点では、のちの『次韻』につながるものだ。
 延宝六年の秋から冬にかけて、松島行脚から戻る途中の京の春澄を迎えて、「のまれけり」の巻、「青葉より」の巻、「塩にしても」の巻という桃青、似春、春澄の三吟歌仙三巻を巻くことになる。
 その中で「青葉より」の巻の八句目で、

   淀鳥羽も鏡のかげに見えたりや
 やよ時鳥天帝のさた       春澄
 (淀鳥羽も鏡のかげに見えたりややよ時鳥天帝のさた)

の句があった。
 「天帝」に「ダイウス」の仮名が振ってある。デウス(deus, Deus)の訛ったもの。かつて下京区菊屋町のあたりに松原だいうす町、上京区堅富田町にだいうすの辻子があったという。
 淀、鳥羽という伏見の地名から、そこのホトトギスまでが南蛮の遠眼鏡で見えるということか。
 遠眼鏡は天和三年其角編の『虚栗』にも、

 富士の月戎には見せじ遠眼鏡   疎言

があるし、元禄九年の桃隣が金華山を旅した時の句にも、

 水晶や凉しき海を遠目鑑     桃隣

の句がある。
 この句に対し、芭蕉はこう付ける。九句目。

   やよ時鳥天帝のさた
 鶯の不受不施だにも置ぬ世に   桃青
 (鶯の不受不施だにも置ぬ世にやよ時鳥天帝のさた)

 「不受不施」はウィキペディアに、

 「不受不施派(ふじゅふせは)とは、日蓮の教義である法華経を信仰しない者から施し(布施)を受けたり、法施などをしないという不受不施義を守ろうとする宗派の総称である。」

 「寛文5年(1665年)、受派の策謀を受け、幕府は、全国の寺社領朱印地に、「敬田供養」の名目で朱印の再交付し、受領書を出すよう迫ったほか、翌年には飲水や行路も「敬田供養」の一環であると主張して不受不施派に圧力をかけた。「施しを受けないこと」を宗旨とする不受不施派はいずれも拒否した。さらに、寛文9年(1669年)、幕府は不受不施派に対しては寺請を禁じ、完全に禁制宗派とした。なお、一部のグループは、幕府が寺領を宗教的布施である「敬田」と言っても、実際は道徳的布施である「悲田」に過ぎず、これを受けても問題ない、と解釈して幕府と妥協した。これが「悲田派」や「恩田派」と呼ばれる「軟派」である。この「軟派」の立場に立ったのが、小湊の誕生寺などであった。」

とある。
 元は豊臣秀吉(とよとみのひでよし)の方広寺大仏殿の千僧供養に反発したところに端を発したようだ。その後、徳川幕府にも不受不施を主張し、寺領を幕府から与えられた土地とすることを拒否した。いわば寺領を幕府の権力の及ばぬ治外法権として認めさせようとしたといってもいいだろう。
 寛文九年に幕府が寺請を禁じたのは、幕府に従わないならそれによって得ている寺の特権も認めないというもので、これによって寺としての存続が危機になる。そのため寺領を幕府からの布施であっても実質的には貧者・病人などを憐れんでの人道的支援なので問題はないとする悲田派が現れるに至った。
 同じ弾圧を受けたダイウスの徒に掛けて、鶯の鳴き声の「法華経」から不受不施派の置く(存続する)ことを許さぬ世に、ましてや時鳥のように稀なダイウスの徒は、となる。
 芭蕉に限らず俳諧師やそのほかの芸能の人たちの間にも、中世的な公界を幕府が潰してきたことに反発があったのではないかと思う。田舎わたらいをしながら自由に生きてきた遊女を遊郭の中に閉じ込めたことに関しても風流人としては放置できぬ問題で、いわゆる心中物の芝居もその文脈で詠む必要がある。それが元禄期までの風流の根底にあったといえよう。
 「塩にしても」の巻の七句目では、

   高う吹出す山の秋風
 ふらすこのみえすく空に霧晴て  桃青
 (ふらすこのみえすく空に霧晴て高う吹出す山の秋風)

と、フラスコという当時は珍しかったものをもちいて秋の景色を詠んでいる。
 フラスコというと今の日本では理科の実験に使うガラス容器だが、本来は実験に関係なく、ポルトガル語でガラス容器一般をさす言葉だった。
 山の秋風に霧が晴れてフラスコのように向こう側が見えるようになった、とする。
 二十二句目の、

   幽霊は紙漉舟にうかび出
 さかさまにはひよる浅草の浪   桃青
 (幽霊は紙漉舟にうかび出さかさまにはひよる浅草の浪)

の句は「紙漉舟にうかび出」に「浅草の浪」が付く。
 この浅草は浅草紙のことで、コトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」に、

 「江戸時代に、江戸・浅草山谷(さんや)付近で生産された雑用紙。故紙を原料とした漉(す)き返し紙で、普通は色が黒く、黒保(くろほう)とよばれて鼻紙や落し紙に広く使われた。また、漉き返す前に石灰水で蒸解し直したものは色が白く、白保(しろほう)と称して低級本の用紙にも使用された。佐藤信淵(のぶひろ)の『経済要録』(1827)に、「江戸近在の民は、抄(すき)返し紙を製すること、毎年十万両に及ぶ」とあるように、れっきとした製紙産業の一つであった。庶民の日常生活に欠かせないものであったため、江戸時代の川柳などにもよく出てくる。明治以後この地が繁華街となるにつれて、製紙業は周辺の地に分散移転したが、さらに洋式の機械製紙が地方で盛んになるにつれ、手漉きの零細業者はしだいに転廃業して跡を絶った。しかし浅草紙の名は、形や産地が変わってもなお長く庶民に親しまれている。[町田誠之]」

とある。
 「幽霊」には「さかさまにはひよる」が付く。
 江戸時代の幽霊は時として頭が下で足が上のさかさまの姿で現れたようだ。延宝五年刊の『諸国百物語』巻之四「端井弥三郎ゆうれいを舟渡しせし事」の幽霊も逆さの姿で現れる。
 二十五句目は経済ネタと突飛な空想が結びついたもので、

   聖天高くつもるそろばん
 帳面のしめを油にあげられて   桃青
 (帳面のしめを油にあげられて聖天高くつもるそろばん)

 帳面の締めで利益が上がるのと白絞油で天ぷらが上がるのとを掛けて、待乳山聖天のように高く利益が積もり積って、天ぷらも積み上げられる。

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