2021年10月23日土曜日

 久しぶりに図書館に行った。岩波の『古浄瑠璃 説教集』を借りてきた。
 『浄瑠璃御前物語』の大和言葉の所はこんな感じかな。

 hey yo、君はまるで繋がぬ馬、野中の清水、沖漕ぐ舟、峰の小松、笹の霰、一叢ススキ、埋火、筧の水、細谷川に丸木橋、飛騨の匠の墨繩、お香の煙、安達が延べた白真弓、片割れ船、二俣川、板屋の霰、清水坂、弦のない弓に羽抜け鳥、中国の鏡、明かり障子、車の両輪、熊野那智の山、都言葉は知らないが、大和言葉わかるかな。

 繋がぬ馬は主人がいない、野中の清水は一人澄む、沖漕ぐ舟はこがれてる、峰の小松は嵐激しく、笹の霰は触れば落ちる、一叢ススキは穂に出て乱れ合え、埋火は見えないところで燃えてる、筧の水は夜毎通うぞ、細谷川に丸木橋は文(踏み)返されて袖を濡らす、飛騨の匠の墨繩はお前一筋、お香の煙は胸の煙、安達が延べた白真弓は引く手に靡け、片割れ船は漕ぐも漕がれぬ、二俣川はシモでめぐり合う、板屋の霰は転がっちゃおうよ、清水坂はみんなが見てる、弦のない弓に羽抜け鳥は射(居)ても発(立)っていられない、中国の鏡は俤だけ、明かり障子は眩しいじゃん、車の両輪に廻り合おう、熊野那智の山に願い叶えて、都言葉は知らないが、大和言葉くらいわからいでか。

 それでは風流の方に。
 芭蕉が『野ざらし紀行』の旅を終えて江戸に帰ってきたあと、六月二日小石川で尾花沢の清風を迎えての百韻興行が行われている。
 この百韻は連歌本式と呼ばれる独特なルールで巻かれている。
 連歌の式目は二条良基の頃から『応安新式』が採用され、その後の『新式今案』の部分的な改定に留まる。連歌本式は新式以前のルールで、明応元年(一四九二年)に兼載が十三項の簡単な連歌本式を制定して蘇らせたもので、翌年宗祇らによって『明応二年三月九日於清水寺本式何人』が興行されている。
 発句は、

 涼しさの凝くだくるか水車    清風

で、小石川付近の神田川か、そこに流れ込む清流の辺りの水車をそのまま詠んだものであろう。今の関口芭蕉庵の辺りではないかと思う。
 これに芭蕉の脇も、

   涼しさの凝くだくるか水車
 青鷺草を見越す朝月       芭蕉
 (涼しさの凝くだくるか水車青鷺草を見越す朝月)

と景を添える。
 十六句目。

   雨そぼつ蚊やり火いたく煙てし
 草庵あれも夏を十畳       芭蕉
 (雨そぼつ蚊やり火いたく煙てし草庵あれも夏を十畳)

 「あれも」は「もあれ」の倒置だろうか。前句の雨の日の蚊遣火の煙に、十畳の草庵を付ける。
 二十三句目は謡曲『熊野』の本説だが、以前のような謡曲の言葉を引くのではなく、それとなく匂わす程度の、俤付けに近いものになっている。

   うしろ見せたる美婦妬しき
 花ちらす五日の風はたがいのり  芭蕉
 (花ちらす五日の風はたがいのりうしろ見せたる美婦妬しき)

 花見の宴が中止になって母のもとに帰京する熊野の後姿を、平宗盛が妬ましく思う。謡曲では雨で中止になったが、本説を取る時には少し変えなくてはいけないので風に変える。
 古式だとここが定座になる。
 三十七句目も蕉風確立期らしい穏やかな景を付けている。

   古梵のせがき花皿を花
 ひぐらしの声絶るかたに月見窓  芭蕉
 (ひぐらしの声絶るかたに月見窓古梵のせがき花皿を花)

 月見窓はお寺の窓であろう。蜩も鳴き止む頃には日もすっかり暮れて月夜になる。
 四十二句目も同様。

   丑三の雷南の雲と化し
 槐の小鳥高くねぐらす      芭蕉
 (丑三の雷南の雲と化し槐の小鳥高くねぐらす)

 鳥が塒に帰るのは漢詩などによく出てくる夕暮れの情景だが、ここでは夜中の雷が止んで南へ去り、鳥は安心して眠るとする。
 四十五句目の、

   狂女さまよふ跡したふなる
 情しる身は黄金の朽てより    芭蕉
 (情しる身は黄金の朽てより狂女さまよふ跡したふなる)

これは浄瑠璃姫か。
 五十三句目は十六句目の十畳の草庵同様、質素な暮らしを描く。

   春を愁る小の晦日
 陽炎に坐す縁低く狭かりき    芭蕉
 (陽炎に坐す縁低く狭かりき春を愁る小の晦日)

 陽炎の立つ庭に面した縁側は低くて狭い。月も小なら家も小だ。
 江戸にもどってきても、元の都会的な風に戻らずに、名古屋で学んできた穏やかで質素な侘び住まいの美学を、江戸の人たちに伝えていると言ってもいいかもしれない。
 六十七句目。

   わけてさびしき五器の焼米
 みの虫の狂詩つくれと啼ならん  芭蕉
 (みの虫の狂詩つくれと啼ならんわけてさびしき五器の焼米)

 素堂の『蓑虫ノ説』はいつごろ書かれたかわからないが、多分この興行より後のことであろう。

 「みのむしみのむし。声のおぼつかなきをあはれぶ。ちちよちちよとなくは。孝に専なるものか。」

で始まる俳文の後に、「又以男文字述古風」という詩が添えられている。本当に狂詩を作ってしまったか。

   又以男文字述古風
 蓑虫蓑虫 落入牕中 一絲欲絶 寸心共空 似寄居状
 無蜘蛛工 白露甘口 青苔粧躬 従容侵雨 飄然乗風
 栖鴉莫啄 家童禁叢 天許作隠 我憐称翁 脱蓑衣去
 誰識其終

 素堂もこの興行に参加していた。
 粗末な草庵で一人焼米を食っていると、蓑虫が父よ父よと鳴き、詩を作れといっているかのようだ。もっとも、実際には蓑虫は鳴かない。カネタタキの声と間違えたのではないかと言われている。
 粗末な草庵での暮らし、蓑笠着た旅姿など、我々がよく知る芭蕉的な世界がここに誕生したと言ってもいいかもしれない。
 七十四句目は夢落ち。

   御明しの夜をささがにの影消て
 汗深かりしいきどふる夢     芭蕉
 (御明しの夜をささがにの影消て汗深かりしいきどふる夢)

 これは蜘蛛が体の上を這ったのが夢でアレンジされて化け物に襲われた夢を見て目が覚めたということ。

 切られたる夢は誠か蚤の跡    其角

の句と同じ。元祿三年刊の『花摘』の句だとすると、芭蕉の方が先か。付け句で得た着想を発句に作ることはそう珍しくない。其角もこの興行に参加している。
 侘びた世界だけでなく、八十一句目のような人情句も展開する。

   立初る虹の岩をいろどる
 きれだこに乳人が魂は空に飛   芭蕉
 (きれだこに乳人が魂は空に飛立初る虹の岩をいろどる)

 「乳人(めのと)」は乳母のこと。
 糸の切れた凧というのは巣立っていった子供の象徴のようでもある。愛情を注いできた子供がいなくなって、放心状態というところだろう。前句の景色に正月の凧揚げを付ける。
 後の江戸後期に千代女の句とされるようになった、

 とんぼ釣り今日はどこまで行ったやら

の句にも通じるものがある。

 翌貞享三年正月の「日の春を」の巻は、芭蕉自身による注釈『初懐紙評注』の付いている貴重な巻でもある。
 発句、

 日の春をさすがに鶴の歩ミ哉   其角

はその『初懐紙評注』に、

 「元朝の日花やかにさし出て、長閑に幽玄なる気色を、鶴の歩にかけて云つらね侍る。祝言外に顕る。流石にといふ手には感多し。」

とある。
 脇は、

   日の春をさすがに鶴の歩ミ哉
 砌に高き去年の桐の実    文鱗
 (日の春をさすがに鶴の歩ミ哉砌に高き去年の桐の実)

で、『初懐紙評注』には、

 「貞徳老人の云。脇体四道ありと立られ侍れども、当時は古く成て、景気を言添たる宜とす。梧桐遠く立てしかもこがらしままにして、枯たる実の梢に残りたる気色、詞こまやかに桐の実といふは桐の木といはんも同じ事ながら、元朝に木末は冬めきて木枯の其ままなれども、ほのかに霞、朝日にほひ出て、うるはしく見え侍る体なるべし。但桐の実見付たる、新敷俳諧の本意かかる所に侍る。」

とある。
 松永貞徳の脇体四道はよくわからない。ネットで調べると四道ではないが「俳諧」というサイトに「白砂人集」が紹介されていて、そこには「脇に五つの仕様あり。一には相対付、二つには打越付、三つには違ひ付、四つには心付、五つには比留り。」とあった。
 実はこれと同じものが戦国時代の連歌師紹巴の『連歌教訓』にある。

 「一、脇に於て五つの様あり、一には相対付、二には打添付、三には違付、四には心付、五には比留り也、(此等口伝、好士に尋らるべし)、大方打添て脇の句はなすべき也、
  年ひらけ梅はつぼめるかたえかな
   雪こそ花とかすむはるの日
  梅の薗に草木をなせる匂ひかな
   庭白妙のゆきのはる風
  ちらじ夢柳に青し秋のかぜ
   木の下草のはなをまつころ
 か様に打添て脇をする事本意成べし、脇の手本成べし、」
 (『連歌論集、下』伊地知鉄男編、一九五六、岩波文庫p.263~264)

 「白砂人集」は肝心な「打添」を「打越」と誤っているし、打添以外は滅多に用いられない。
 打添は発句の趣向の寄り添うような付け方で、「年ひらけ」に「春の日」、「梅はつぼめる」に「雪こそ花」と付ける。二番目の例も「梅の薗」に「庭白妙」、「なせる匂ひ」に「春風」と打ち添える。三番目の例も「ちらじ夢」に「はなをまつころ」と打ち添える。
 貞門時代の芭蕉も参加した寛文五年の貞徳翁十三回忌追善俳諧の脇は、

   野は雪にかるれどかれぬ紫苑哉
 鷹の餌ごひと音おばなき跡     季吟

で、これも「かるれどかれぬ紫苑(師恩)」に「音をばなき(亡き)跡」というふうに打ち添えている。
 延宝四年の芭蕉の発句に対する信章の脇も、

   此梅に牛も初音と鳴つべし
 ましてや蛙人間の作        信章

というふうに、「牛も初音」に「ましてや‥」と打ち添える。
 発句が次第に明白な挨拶の意味を失ってくると、脇も打ち添えようがなくなって景気で付けるようになる。
 延宝六年の芭蕉発句に付けた千春の脇は、景気付けの走りといえよう。

   わすれ草煎菜につまん年の暮れ
 笊籬味噌こし岸伝ふ雪       千春

 「わすれ草」に年忘れを掛けた芭蕉の発句に何ら打ち添えるのでもなく、「煎り菜摘み」に「雪」を景気で出してくる。これは、

 君がため春の野に出でて若菜摘む
    我が衣手に雪は降りつつ
               光孝天皇(古今集)

 の歌を踏まえている。
 さて、文鱗の脇に戻ってみると、

   日の春をさすがに鶴の歩ミ哉
 砌に高き去年の桐の実    文鱗

 初春の句に初春の情景として去年からなっている桐の実を付けているのがわかる。「桐の木」と言わずに「桐の実」というところで桐の実だけが残って葉の落ちた木を、子規流に言えばマイナーイメージで描いている。
 残った桐の実に新しい年の光が差して輝く様を「高き」という言葉を添えることで際立たせる。
 こういう脇の付け方を、「新敷俳諧の本意かかる所に侍る」と芭蕉は考えていた。
 第三の、

   砌に高き去年の桐の実
 雪村が柳見にゆく棹さして    枳風
 (雪村が柳見にゆく棹さして砌に高き去年の桐の実)

も『初懐紙評注』には、

 「第三の体、長高く風流に句を作り侍る。発句の景と少し替りめあり。柳見に行くとあれば、未景不対也。雪村は画の名筆也。柳を書べき時節、その柳を見て書んと自舟に棹さして出たる狂者の体、珍重也。桐の木立詠やう奇特に侍る。付やう大切也。」

とある。「長高く」は今の言葉ではうまく表現しにくいが、力強くと格調高くを合わせた感じか。「居丈高」という言葉に「たけたか」は生き残っているが、もとは背が高いことからきている。それが高い所から物を言うという意味になった。
 紹巴の『連歌教訓』には、

 「第三は、脇の句に能付候よりも長高きを本とせり、句柄賤しきは第三の本意なるべからず、」(『連歌論集、下』伊地知鉄男編、一九五六、岩波文庫p.264)

とある。
 発句が新年の句だったのに対し、柳は仲春から晩春の景になる。「未景不対也」というのは、秋から残っている桐の実に春の柳を対比させる「相対付け」とするには、まだ「見にゆく」段階で柳そのものを出していないので成り立たない。
 雪村は室町後期から戦国時代にかけての絵師で、雪舟をリスペクトしていたが、雪舟の亡くなった頃に生まれているため、直接的なつながりはない。尾形光琳に影響を与えたが、尾形光琳が活躍するのはもう少し後のこと。
 雪村が自ら舟を漕いで柳を見に行くというあたりに風狂が感じられる。「砌(みぎり)」は発句に対しては「その時まさに」という意味で用いられていたが、ここでは「水際」の意味になり、そこから「棹さして」を導き出している。

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