「洗足に」の巻の続き。
十五句目。
ふたりの柱杖あと先につく
乗掛の挑灯しめす朝下風 嵐蘭
「乗掛」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、
「1 近世の宿駅で、道中馬の両側に明荷(あけに)という葛籠(つづら)を2個わたし、さらに旅客を乗せて運ぶこと。「通し駕籠(かご)か―で参らすに」〈浮・五人女・二〉
2 「乗り掛け馬」の略。」
とある。
「下風(おろし)」は颪という字も書く。山から吹き降ろす風で、乾燥した空っ風であることが多い。特に冬の季語にはなっていない。
朝もまだ薄暗い頃、山から吹き降ろす風が冷たくて、さしもの雲水行脚の僧もついつい乗り掛け馬の提灯に誘われてしまう。
十六句目。
乗掛の挑灯しめす朝下風
汐さしかかる星川の橋 芭蕉
星川は桑名の星川で、濃州道(員弁街道)が通っていた。不破の関があった関が原から桑名に抜けるのには便利な道だったようだ。
『校本芭蕉全集 第五巻』(一九八八、富士見書房)の註は、
桑名よりくはで来ぬれば星川の
あさけになりぬ日永なりけり
の歌を引用している。『笈の小文』の杖突坂のところに「『桑名よりくはで来ぬれば』と云ふ日永(なが)の里より、馬かりて杖つき坂上るほど」とあり、伝西行の歌だと思っていたが、この註には宗祇とある。
あさけは「朝明」という字を書き、今日では桑名の南を流れる朝明川の名前に残っている。
桑名・朝明・日永は近世の東海道とも一致するが、星川だけは東海道からは離れている。あるいは員弁川(いなべがわ)下流の町屋川のことを星川と呼んでたのかもしれない。それならば「星川の橋」は町屋川にかかる町屋橋ということになる。
町屋橋は桑名宿を出てすぐのところで、桑名宿の乗り掛け馬の提灯が見えたのだろう。また、このあたりは鈴鹿颪が吹く。
十七句目。
汐さしかかる星川の橋
村は花田づらの草の青みたち 許六
先にも述べたように、ここは本来洒堂の順番だが、亭主である許六に花を持たせている。
星川はここでは特にどこということでもなく、ただ河原の景色を付ける。
近くの村には花が咲き、田植前のまだ水の入らない田んぼには草が芽吹いて青々としている。
『去来抄』先師評の、
につと朝日に迎ふよこ雲
青みたる松より花の咲こぼれ 去来
の句のところで、最初「すっぺりと花見の客をしまいけり」という句を付けたが、芭蕉の顔色が曇っているのを見て付け直したという。どうして付け直したか聞かれると、
「朝雲の長閑に機嫌よかりしを見て、初に付侍れど、能見るに此朝雲のきれいなる景色いふばかりなし。此をのがしてハ詮なかるべしとおもひかへし、つけ直し侍る。」
と答えたという。
許六のこの句も、ただ川べりのきれいなる景色いふばかりなしという所か。
十八句目。
村は花田づらの草の青みたち
塚のわらびのもゆる石原 洒堂
ここも奇をてらわずに景色をつけて流すが、田んぼに石原と違えて付ける所で変化をもたせている。
「石原」はweblio辞書の「三省堂 大辞林」に、「小石が多くある平地。」とある。
「わらびのもゆる石原」は
石走る垂水の上の早蕨の
萌え出づる春になりにけるかも
志貴皇子
を本歌とする。
ただ、「塚」は墓を連想させる。近代の梶井基次郎ではないが、花の下には死体が埋まっているというところか。
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