ネットを見ていたら、
着ぶくれて慰安婦像の銅の髪 東国原英夫
の句があった。このテレビ番組は一度チラッと見た程度でよくわからないが、あいかわらず近代俳句はイミフな句が多い。
まず切れ字がなくて句が切れてないし、「着膨れて」の言葉がこれでは生きていない。
着膨れの慰安婦像や銅の髪
ならば、手を打て「出来たり」というところだ。
それでは『俳諧問答』の続き。
「血脈備ハつて出生すれバ、目鼻ハ自然ニ出来たり。是不易・流行とわかれて、男と成、女と成るがごとし。
故ニ先書ニ論じたる、不易・流行を前にをきて句を案ずる事あるまじとハ、如此也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.97)
「血脈」をあくまで人間として本来自然に備わっている「性理」あるいは「誠」だとするなら、この主張は分かる。
ただ、問題はそこに「継承」という概念を持ち込んで、限られた選ばれた人間だけがそれをできるということになると、それは違うだろう。
今日の科学から見るなら、血脈は最初の生命の誕生から人類までの進化の過程で獲得したさまざまな欲望、衝動、感情、理性の総体であり、そこに明確な統一性はない。それは進化の過程でそのつど継ぎ足されたものであり、神によってあらかじめ設計されてたわけではないからだ。
それは混沌としていながらそれでいて緩やかなまとまりを持っている。それは「道」の概念にも通じる。
一人の人間の個体の中でも緩やかなまとまりしかないものは、大きな社会集団となっても同様、混沌の中に道がある。世界は多様なものの緩やかなまとまりであり、それ以上でも以下でもない。完全なカオスというのもなければ、整然たる統一もない。
それは誰でも持っているが、誰も完全ではない。
血脈をこのようなものと考えるなら、それは誰もが生まれながらに継承していて、特定の血筋の者だけが特権を持つわけではない。
日本の様々な古典芸能に世襲や擬制の世襲が見られ、いわゆる家元が存在し、代々その家のものが権威を持ったりするが、俳諧はそのような家元制が形成されなかった。
貞門でも貞徳亡きあと、誰かが二代目貞徳を襲名することはなかった。談林でも同じだし蕉門でも同じだ。そこが能や歌舞伎とは違う所だ。
芭蕉以降となると嵐雪の血脈を継承する三世雪中庵蓼太や、巴人、蕪村、几董の夜半亭三代のようなものが存在する。もちろんそこには実際の血のつながりはなく弟子が擬制として継承している。
こうした習慣は近代に入ると「俳統」と呼ばれるようになり、誰の弟子であるか、どこの結社に所属しているかが重要になる。ちなみに鈴呂屋こやんは誰の弟子になったこともなく、結社に所属したこともないので俳統は「なし」ということになる。
俳諧は高度な芸や技術を要するものではなく、幼い頃から教育する必要もない。また、そういう教育を施したからといって面白い句が生まれるわけでもない。そういう意味では俳諧の誠は古代ギリシャでプラトンが論じた「徳」と同様、子孫に継承させることはできない。
もちろん素質というか筋の良し悪しというのはある程度あるだろう。ただ、それはその人個人のもので、他人に継承させることは出来ない。
風雅の誠をもって句を作るなら、その句は様々な姿をとっても元は一つであり、不易体、流行体というのがあるのであれば、そういう句もできる。それは別に間違ってはいないだろう。
「是血脈相続の人にてなきしるしに、枝葉の不易・流行にからまされて、元来出生の血脈を失ひたる也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.97~98)
枝葉の不易と流行に惑わされる人は血脈がないのではない。ただ見失っているにすぎない。だから、厳密に言えば「相続の人にてなきしるし」ではない。先祖代々人間として生を授かっている以上、血脈は相続しているのだが、一時的にそれを忘れているだけだ。
ただし、これは不易体、流行体とわざわざ分けて句を読む方法をいうだけで、どんな句にも不易の面もあれば流行の面もある。それをあとから分類してこれは不易の句、これは流行の句というにすぎない。以前に述べたとおりだ。
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