昨日は旧正月で、あけおめ。俳諧のほうも春になる。
それでは『俳諧問答』。一歩一歩少しづつ。
「翁ノ笈の小文に書れらるる句、それハ一生一代の秀逸の事也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.99)
芭蕉が目に留めた秀句を書き付けたという「笈の小文」は未だその存在が確認されていない。今日『笈の小文』と呼ばれている紀行文のことではない。
ただ、『去来抄』「先師評」の「岩鼻や」の句のところに、
「去来曰、笈の小文集は先師自撰の集也。名をききていまだ書を見ず。定て原稿半にて遷化ましましけり。此時予申しけるハ予がほ句幾句か御集に入侍るやと窺ふ。先師曰、我が門人、笈の小文に入句、三句持たるものはまれならん。汝過分の事をいへりと也。(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,18~19)
とあり、少なくとも去来・許六と複数の人がその存在を証言している。
「只人の口ニ申觸るる程の句さへ、此ごろハなし。
これハしるもしらぬも、不易不易といへる故に、あやうき場所をわすれたりと察ス。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.99)
俳諧の衰退はもちろんそんな単純なものではない。
一つには江戸庶民の娯楽の多様化ということもあっただろう。
それとともに、かつて寺社などで盛大に興行された百韻の時代から、もっぱら個人宅に引き籠っての歌仙興行に変わっていったことも、俳諧を多くの不特定多数の人の参加の出来ない閉鎖的なものにし、世間の価値観と遊離する原因になったのではないかと思われる。
そういう中で「不易」という言葉は世間から遊離した独特な価値観を表すのに便利な言葉になっていったのかもしれない。近代俳句も俳句をやってる人にしかわからない独自な価値観に凝り固まって既に久しい。
ある意味で江戸中期になって俳諧を世間の価値観に引き戻したのは、柄井川柳の川柳点だったのかもしれない。
許六も確かに談林の影響を受けた時代が長かっただけに、世俗的なネタをたくさん持っていて、それが「十団子」の句や、
行年や多賀造宮の訴詔人 許六
人先に医者の袷や衣がへ 同
といった句を生んだといえよう。芭蕉が求めたのはそこでもあった。
「一年の秀逸、一月の秀逸あるべき事也。是ハ血脈の慥ニ相続の上の事を、予ハ秀逸と云也。
俳諧の眼共、又ハほそミ共、影共いふ也。少づつハいひかハりもあるべけれ共、畢竟ハ血脈第一の上也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.99)
「眼」は眼目のことか。眼目は今日の俳句でもよく使われる。「影」はよくわからない。「眼」にしても「影」にしても用例を探す必要がある。
「ほそみ」は『去来抄』にあり、「さび」「しほり」とともによく知られている。
血脈はこれらの根底にあるという。ただ、それは風雅の誠のような普遍的なものでありながら、同時に相続されるという両面を持つ。
「言葉のかざりニて、ほそミ・しほりなどいふて、益なき事を付がる事を、先書にハしるし侍る也。元来血脈のなき句の事也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.99~100)
「先書」は、
「近年湖南・京師の門弟、不易流行の二ッにまよひ、さび・しほりにくらまされて、真のはいかいをとりうつしなひたるといはんか。たまたま同門にたいして句を論ずるに、ことばのつづき、さびを付けざればよしのといはず。一句のふり、しほりめかぬはかつて句とせず。これ船をきざみ、琴柱(ことぢ)に膠(にかは)するの類ならんか。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.35~36)
のことであろう。
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