2019年2月11日月曜日

 今日は庄野潤三の「山の上の家」に行った。
 とはいっても近代文学に疎い私としてはこの人がどういう人なのかもわからず、ただくっついて行っただけだが。
 ただ、ここは自宅から歩ける距離にあり、寒い中を歩いていった。長沢浄水場の隣にあり、年に二回公開されるという。
 玄関の前のスダジイの木だろうか、梯子がかかっていて、そのうえに太い丸太が横に渡してあり、そこに乗れるようになっていた。これを見て「ひょっとして幻住庵?」と思った。これに藁座布団があれば「猿の腰掛」だ。場所も山の上で眺めも良さそうだし。
 さて、「此梅に」の巻の続き。
 第三。

   ましてや蛙人間の作
 春雨のかるうしやれたる世中に    信章

 春雨は春の霧雨とも言われるようにザアザア降るのではなく軽く降る。
 人間の世界も軽い方が洒落ている。洒落者は軽薄に見られがちだが、物事に拘泥せずに、臨機応変に機転を利かせて生きることは決して悪いことではない。昔も今もファッションやトレンドは軽いのを良しとする。
 日本の場合、軽いものを良しとする価値観は、仏教によるものなのかもしれない。執着を捨てることを我々の文化は良しとする。過去もさらっと水に流すのが良い。
 春雨のように軽い洒落た世の中であれば、まして蛙(俳諧)はより軽く洒落ている。後の芭蕉の「軽み」を待つまでもなく、俳諧は本来軽いのを良しとする。
 四句目。

   春雨のかるうしやれたる世中に
 酢味噌まじりの野辺の下萌      桃青

 春の野辺の下萌といえば若菜。これを酢味噌で食べるのは洒落ている。さすが伊賀藤堂藩の元料理人だ。
 『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の補注は、『夫木和歌抄』の、

 昔見し妹が垣根はあれにけり
     つばなまじりのすみれのみして

の歌を引いている。
 五句目。

   酢味噌まじりの野辺の下萌
 摺鉢を若紫のすりごろも       桃青

 『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の注は『伊勢物語』の、

 春日野の若紫の摺り衣
     しのぶの乱れかぎり知られず
               在原業平

の歌を引いている。
 若菜を酢味噌に混ぜて摺り鉢で摺り潰し、ペーストを作っているのだろうか。
 鉢を染める色が昔の原始的な摺り染めの衣のような荒っぽい模様を描いている。
 延宝八年の、

 柴の戸に茶を木の葉掻く嵐かな    桃青

の趣向にも通じるものがある。風で吹き集められた木の葉は抹茶を立てるときのようだ。
 六句目。

   摺鉢を若紫のすりごろも
 むかし働のおとこありけり      信章

 前句が『伊勢物語』の趣向だから、「むかしおとこありけり」を付ける。前句の意味にはそれほどこだわっていない。こういう付け方もたくさんの句を素早く詠むには必要なテクニックだ。
 ただし、「働(はたらき)」の男として換骨奪胎する。「働」は今で言う「下働き」のことか。
 七句目。

   むかし働のおとこありけり
 皹のひらけそめたる空の月      信章

 原文は月偏に氐の字になっている。フォントが見つからないので「皹(あかがり)」とした。あかぎれのこと。
 働く男はあかぎれくらいできる。あかぎれが開いて痛いところだが、それを夜があいて白んでゆく空の月に掛けて、強引に月の定座にもって行く。
 八句目。

   皹のひらけそめたる空の月
 つまだてて行あし引の山       芭蕉

 あかがり(あかぎれ)を足にできたあかがりとし、あかがりが痛くてつま先立ちで足を引き摺るようによろよろ歩く様とする。それを枕詞の「あしひき」に掛ける。

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