今日は九段の千代田区役所で行われた「千代田ねこ祭り」を見に行った。祭りといっても役所のフロアの中だけの小さなイベントで、保護猫の譲渡会、猫グッズの販売、音楽ライブなどがメインだ。
むぎ(猫)というミュージシャンのライブは面白かった。何でも、公式ホームページによると、
「1997年7月東京生まれ。2002年沖縄に移り住み、2009年1月に永眠。5年間の天国暮らしの後、2014年3月にカイヌシのゆうさくちゃんによる手作りの新しい身体を手に入れ、再びこの世に舞い戻った。」
という。
久しぶりに神保町を散歩したし、楽しい一日だった。やっぱり平和はいいもんだ。鈴呂屋は平和に賛成します。
それでは「此梅に」の巻の続き。二裏に入る。
三十七句目。
ゑんまの町々引わたす霧
煩悩の本綱中づな末の露 桃青
「本綱(もとづな)」は馬や荷車を引く時の綱の手元の部分。「中綱」とはあまり言わないがここは調子を合わせるための造語であろう。本綱、中綱と来て、下綱と来るように見せながら「末の露」と一応秋の季語を放り込む。
前句の「引きわたす」を市中引き回しのこととして、「末の露」は獄門曝し首を暗示させる。煩悩の果てはこうなるという戒めか。
こういう調子のいい言葉の配列も、この頃の俳諧がゆっくりとしたテンポで吟じられたのではなく、いわゆる軽口で唄われたからではないかと思う。軽口だからこそ矢数俳諧も可能だった。
三十八句目。
煩悩の本綱中づな末の露
人足あれば山姥もあり 信章
『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の注に、謡曲『山姥』の一節が引用されている。注ではかなり省略されているが、
「邪正一如と見る時は。色即是空そのままに
仏法あれば世法あり。煩悩あれば菩提あり、
仏あれば衆生あり。衆生あれば山姥もあり
柳は緑 花は紅の色々」(「宝生流謡曲名寄せのページ」による)
という地謡の一節だ。
この「衆生」のところを「人足」に変えている。前句の三つの綱を煩悩の「三結」とする。
三結はウィキペディアによれば、五下分結のうちの「有身見(うしんけん) - 我執、戒禁取見(かいごんじゅけん) - 誤った戒律・禁制への執着、疑(ぎ) - 疑い」をいう。この三結を絶てば人足も山姥も一体の、この世界のあるがままの柳は緑花は紅の世界になる。
三十九句目。
人足あれば山姥もあり
谷の戸をたたき起して触流し 桃青
山姥は閉ざされた山の中に住んでいるが、谷の入口に住む住民をたたき起こして人足を集めるように御触れを出す。一体何が起きたのかよくわからないが‥
四十句目。
谷の戸をたたき起して触流し
諸鳥の小頭うぐひすのこゑ 信章
たたき起こしたのは鶯だったという落ち。鶯は春告鳥ともいい、山に住む鳥たちに春を告げるためだった。
四十一句目。
諸鳥の小頭うぐひすのこゑ
花をふんですずめは千の徒歩の衆 桃青
鶯が出たところで花の定座を繰り上げる。
鶯の小頭に雀を徒歩の衆とする。
四十二句目。
花をふんですずめは千の徒歩の衆
上野下屋の竹のはるかぜ 信章
「下屋」は「下谷」と同じ。上野山の下にある。上野寛永寺の門前だが下谷広小路はこの頃はまだなく、上野山の花を眺め竹に雀が囀る長閑な所だったのだろう。江戸後期には歓楽街になる。
四十三句目。
上野下屋の竹のはるかぜ
鍔目貫朝の霜にくちはてて 桃青
「鍔目貫」は「鍔」と「目貫」で、「鍔」は「刀剣の柄(つか)と刀身との境に挟んで、柄を握る手を防御するもの。」(コトバンク「デジタル大辞泉の解説」)、「目貫」は「目釘のこと。のち、柄(つか)の外にあらわれた目釘の鋲頭(びょうがしら)と座が装飾化されてその部分をさすようになり、さらに目釘と分離した飾り金物として柄の目立つ部分にすえられるようになった。」(コトバンク「デジタル大辞泉の解説」)。
刀が朽ち果てて竹光になったということか。
四十四句目。
鍔目貫朝の霜にくちはてて
鎧は毛ぎれむしは音をいれ 信章
「毛切れ」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、
「鎧(よろい)の威(おどし)の糸がすり切れること。
「―のしたる鎧(よろひ)着せ」〈幸若・屋島軍〉」
とある。
「音(ね)を入れる」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「鳥、特に鶯(うぐいす)が鳴くべき季節が終わって鳴かなくなる。鳴きやむ。〔俳諧・増山の井(1663)〕」
とある。
刀も朽ちて鎧の糸が切れて、虫も鳴かなくなる。枯野に横たわる死んだ武者の姿か。
芭蕉がのちに『奥の細道』の旅で詠む、
むざんやな甲の下のきりぎりす 芭蕉
の句を髣髴させる。
参考までに、キリギリスはコオロギ、コオロギはカマドウマ、カマドウマはコオロギ。
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