2019年2月16日土曜日

 日本では「言霊(ことだま)」とか言う人がいて、口にしたことは本当にそうなるという。
 良いことはどんどん口にすれば良いが、悪いことはみだりに口にすべきではないという戒めだ。
 非科学的だと言う人もいるが、こと戦争に関しては正しいのではないかと思う。
 「戦争になる」と繰り返し言われていると、人間の心理として、必ず「ならばやられる前にやれ」ということになる。
 回避できるならそれが一番良いのだが、回避できないとなると勝つしかない。その論理が世界的な軍拡の連鎖を引き起こしてゆく。
 実際に「安倍が戦争を起こそうとしている」だとか「このまま極右が台頭すれば第三次世界大戦が起こる」だとかいう声を随分と聞いたが、韓国政府は露骨に反日路線を取るようになったし、中国やロシアは核軍拡を続け、アメリカもそれに対抗せざるを得なくなった。事態はどんどん悪い方向に向かっている。
 だから平和を願うすべての人に言いたい。「戦争が起こる」と連呼して不安や恐怖を煽るのはもうやめにしよう。「世界は平和になるんだ」「すでに世界の多くは平和だし、今ある戦争だってもうすぐ終わるんだ」「戦争はもはや時代遅れだ」とポジティブに平和を訴えて欲しい。
 「戦争反対」ではなく「平和賛成」「平和最高」を声を大にして叫ぼうではないか。
 平和と言えばやはり俳諧。俳諧は江戸の平和の象徴とも言える。そこから学ぶものも多いだろう。というわけで「此梅に」の巻の続き。

 二十九句目。

   末の松山茎漬の水
 千賀の浦しほがま居て場の隅     桃青

 千賀の浦は現在の塩釜港だという。『古今和歌六帖』に、

 陸奥の千賀の塩釜近ながら
     遥けくのみも思ほゆるかな
                伊勢

の歌がある。ただ、ここでは塩釜は文字通り塩を入れた釜で、「場(には)」は『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の注によれば、台所の土間のことだという。
 土間の上に釜を据えて塩を入れ茎漬けを作るという句に、「末の松山」「千賀の浦」がただ調子を整える言葉として付け加えられた感じになる。そこに特に意味はない。こういうのもこの頃の特有の付け方といっていいだろう。
 三十句目。

   千賀の浦しほがま居て場の隅
 雪隠さびて見えわたるかな      信章

 「雪隠(せっちん)」は最近あまり聞かなくなったがトイレのこと。前句の「場(には)」を外の庭として、そこに「うらさびた」トイレの建物がある。千賀の浦、塩釜だけにうらさびている。
 「うらさぶ」は「心荒ぶ」と書くが、昔から「浦」に掛けて用いられ、古今集にも、

 君まさで煙絶えにし塩竃の
     うらさびしくも見えわたるかな
                  紀貫之

の歌がある。この歌の換骨奪胎とも言える。
 三十一句目。

   雪隠さびて見えわたるかな
 たまさかにこととふ物はげたの音   桃青

 「こととふ」は声をかけることをいう。たまに物音がするとといっても下駄の音だけだ。トイレに下駄は付き物。
 三十二句目。

   たまさかにこととふ物はげたの音
 なを山ふかく入し水風呂       信章

 当時の風呂はサウナが主流で、水風呂(水を沸かした風呂)は山奥の湯治場などにある。
 三十三句目。

   なを山ふかく入し水風呂
 よしやよしこぬか袋の濁る世に    桃青

 「よしやよし」は「いいのだろうか、いいのだ」で、赤塚不二男の「これでいいのだ」にも近いかもしれない。『和泉式部日記』に、

 よしやよし今は恨みじ磯に出でて
     漕ぎはなれ行く海人の小舟を

の歌の用例がある。
 「ぬか袋」はウィキペディアに「顔や体の汚れを取り、肌を洗うための洗浄剤」とある。米ぬかを木綿の袋に詰めたもの。
 洗浄剤さえ濁るこの世の中を捨てて山奥の水風呂を求めるというと、何となく世捨て人の風情がある。人生の洗濯というところか。
 三十四句目。

   よしやよしこぬか袋の濁る世に
 千里をかける馬子はあれども     信章

 「千里の馬は常にあれども伯楽は常にはあらず」(韓愈『雑説』)のもじりか。こんな濁りきった世だから街道に千里の馬を引く馬子はいても、千里の馬であることを見抜ける伯楽はいない。まあ、平和だといえば平和なので、それでいいではないか。
 今の泰平の世の中では軍で活躍するような千里の馬は必要ないし、本来なら名将になる素質のある者が市井に埋もれていてもそれも良しとしよう。
 なかなか面白い句だが、ただ、こぬか袋関係ない。これがこの頃の付け方だ。
 三十五句目。

   千里をかける馬子はあれども
 西の月見ぬ六道の札の辻       桃青

 「六道」はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、

 「仏教用語。生存中の行為の善悪の結果として,衆生がおもむく6種類の世界の状態をいう。すなわち,地獄,餓鬼,畜生,阿修羅,人間,天をいう。 (→輪廻 , 六地蔵 )」

とある。
 西の月は西方浄土を表わし、解脱することなく輪廻を繰り返す六道の辻では西の月を見ることはない。
 「札の辻」は宿場の入口などにある高札場のある辻。東京の三田のあたりに札の辻の交差点があるが、かつてはここが東海道の江戸の入り口だったという。
 こういう辻には六道を表わす六地蔵が立っていることもあったか。その脇を千里を行くかのような馬子に引かれ、荷を背負った馬が通り過ぎて行く。
 三十六句目。

   西の月見ぬ六道の札の辻
 ゑんまの町々引わたす霧       信章

 「閻魔の庁」だとコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」にある通り、「閻魔王がいる庁舎」の意味になる。ここでは閻魔の町々で閻魔様のいる所も賑やかになったものだ。

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