このごろ「ネトウヨ」という言葉がやたら拡大解釈されていて、あたかも日本にはネトウヨがうじゃうじゃいるかのような印象操作が為されている。
本来ネトウヨはそんなに数は多くない。多く見積もっても一パーセントに満たない。ただ、一人でたくさんのアカウントを作って一斉攻撃を仕掛け、いかにも大勢の人間が殺到して炎上しているかのように見せかけるのが奴らの手口だった。そこから「ゴキブリは一匹いたら百匹いると思え、ネトウヨは百件書き込みがあったら一人だと思え」という諺もできたくらいだ。
筆者のネトウヨのイメージだと、たとえば在日は朝鮮戦争の頃の不法移民だからみんな強制送還しろだとか、そもそも慰安婦なんてものは存在せず自発的な売春婦がいただけだだとか主張している連中で、もちろんどちらも事実に反する。在日の多くは太平洋戦争が始まる前から日本にいた人たちの子孫だし、慰安婦の多くは債務奴隷などの事情により売春を強いられていたし、騙されたり誘拐されたりした人たちもいた。
今となってはあまりネットとは関係なく、韓国と中国と朝日新聞が嫌いなのはネトウヨだとか、安倍の支持者はネトウヨだとか、ますます分けのわからないことになって、それはウヨかもしれないがネトではない。
最終的には左翼でない者はみんなネトウヨで、そうなると何と日本人の九割はネトウヨだということになる。それだともちろん鈴呂屋こやんとて例外ではない。
それでは無駄話はこれくらいにして「此梅に」の巻の続き。
四十五句目。
鎧は毛ぎれむしは音をいれ
ことあらばやせたれどあの花薄 桃青
『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の注に、「源左衛門の痩馬を出すべきを花薄に転じた」とある。
源左衛門は謡曲『鉢木』に登場する佐野の源左衛門で、
シテ「運の尽くる所か。最明寺殿さへ修行に御出で候ふ上は候。やうにおちぶれては候 へども。御覧候へこれに物の具一領長刀一えだ。あれに馬をも一匹つないで持ちて候。これは只今にてもあれ鎌倉に御大事あらば。ちぎれたりとも此具足取つて投げかけ。錆びたりとも長刀を持ち。痩せたりともあの馬に乗り。一番に馳せ参じ着到に附き。さて合戦始まらば。
地 「敵大勢ありとても。敵大勢ありとても。一番に割つて入り思ふ敵と寄合ひ打合ひて死なん此身の。此侭ならば徒らに。飢に疲れて死なん命。何ぼう無念の事さうぞ。(「宝生流謡曲名寄せのページ」による)
というように、いわゆる「いざ鎌倉」の元になった話だ。
「ことあらばやせたれど」だけで源左衛門の痩せ馬を連想させ、虫の音の縁で花薄を出す。ススキも外来の牧草が入ってくる以前は馬の飼料とし
て用いられていたようだ。
四十六句目。
ことあらばやせたれどあの花薄
ももとせの餓鬼も人数の月 信章
前句の「やせたれど」を餓鬼のこととした。「餓鬼」はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、
「仏教で説く六道の一つの餓鬼道に住むもの。あるいは人間とともに住む餓鬼もいるといわれる。常に飢えと渇きに苦しみ悩まされ,餓鬼の腹は出て皮と筋と骨ばかりで,長い間食物について聞くことも見ることもなく,たとえ見たとしても食べることはできない。また食べようとして口のところにもってくると炎となってしまうこともあるといわれる。さらに子供の貶称に用いることもある。」
とある。子供の貶称というのは「悪ガキ」だとか「ガキ大将」「ガキの使い」だとか今でも用いられている。
「餓鬼も人数(にんじゅ)」というのは、コトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、
「つまらない者でも、いれば、多少の効果があることのたとえ。また、取るに足りない者も多く集まれば、あなどりがたいことのたとえ。」
とある。「人数」はここでは字数の関係か「にんじゅう」とよむ。
まあ、枯れ木も山の賑わいというところか。花薄のようにひょろひょろと痩せた百歳の餓鬼も名月の賑わいか。
四十七句目。
ももとせの餓鬼も人数の月
大無尽世尊を親に取たてて 桃青
「無尽」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、
「口数を定めて加入者を集め、定期に一定額の掛け金を掛けさせ、一口ごとに抽籤または入札によって金品を給付するもの。→頼母子講(たのもしこう)」
とあり、「頼母子講」は同じくコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、
「金銭の融通を目的とする民間互助組織。一定の期日に構成員が掛け金を出し、くじや入札で決めた当選者に一定の金額を給付し、全構成員に行き渡ったとき解散する。鎌倉時代に始まり、江戸時代に流行。頼母子。無尽講。」
とある。
ここではお釈迦様(世尊)が大勢の餓鬼から金を集めて頼母子講をやっていると、芭蕉お得意のシュールな空想で展開する。
四十八句目。
大無尽世尊を親に取たてて
公儀の掟はのがれ給はず 信章
無尽の変形で「取退無尽」という博打まがいのものがあり、しばしば禁制が出されたというが、だいたいは江戸中期以降のことで延宝の時代にそういう禁制があったかどうかはよくわからない。
この場合はお釈迦様が集金に来るのだから、払わずにごまかして当選金だけ貰おうなんてことはできないと見ておいた方がいいか。
四十九句目。
公儀の掟はのがれ給はず
土も木も三間ばりに野づら石 桃青
「三間ばり」は三間梁規制といって、寺田建築事務所のホームページによると、
「江戸時代には「三間梁規制」といって上屋の梁間は三間(約19.5尺)に制限されていた。寛永20年(1643年)「武家住宅法令」が定められ、明暦3年(1657年)に大名屋敷だけでなく町民屋敷へと規制は拡大されている。」
だという。
「野づら石」は自然石のことで、三間梁の掟は人間の家屋だけでなく、土や木や石にも適用される‥なんてことは実際にはないけど。
五十句目。
土も木も三間ばりに野づら石
此山一つ隠居料にと 桃青
さて、三の懐紙に入る前ニまた順序を入れ替えるため、桃青が二句続けて詠む。
三間梁を隠居用の屋敷とし、山の土や木や野面石をすべて売り払った。
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