2019年2月8日金曜日

 アリアナ・グランデさんを悲しませてしまった「文化の盗用(cultural appropriation)」という言葉は、日本ではほとんど聞くことがない。一部の人権問題に深入りしている人くらいが知っている言葉ではないかと思う。
 おそらく本来は少数民族の文化が支配的な民族によって捻じ曲げられることを防ぐためにできた概念ではなかったかと思う。
 アメリカではよく使われ、しばしば悪用されている言葉なのかもしれない。ただ、普通の日本人の発想からはこの言葉は出てこない。
 七つの指輪のことを七輪と書いたことについては、日本人はそれを「外人あるある」の一つとして笑い飛ばすことを知っている。笑ってはいても悪意はない。外人の着ているTシャツの変な日本語を話題にするのと同じ感覚だ。
 少なくとも日本に生まれ育った日本人は、「文化の盗用」だなんてこれっぽっちも考えてない。むしろ外人が日本に興味を持ち、それを真似てくれるのをいつでも喜んで、日本の文化も国際的になったと誇りに思っている。
 だから侍や忍者や初音ミクのコスプレをする事を恐れないでほしい。叩くくとしたら、それは別の人たちだ。
 もちろん連歌や俳諧などの日本の伝統文化も、細かい所など気にせずにどんどん真似てほしい。それでバッシングする人がいたら、それも別の人たちだ。
 文化の多様性は世界中の人々の財産であり、特定の人たちだけの特権ではない。多様性は一つの文化が行き詰った時のための保険でもあり、誰もが使えるからこそ意味がある。
 今回のバッシングを見ても西洋人権思想のポリコレ棒の弊害は見えている。それを乗り越えるには日本の文化を積極的に盗用することをお勧めする。
 長くなったが、それでは『俳諧問答』の続き。

 「路通ごときのもの成共、急度俳諧を正敷あらため、血脈ノ句いひ出さば、三神をかけて予一番に門弟と成ル志也。
 路通一生涯の行跡の事ハ、予少も心にかけず。予が仁義の師となさば、似せる嘲りもあるべし。
 俳諧ニおいてハ、門前にたたずむ乞食成共、一芸のすぐれたる所を見出さば、何ぞ憚る所あらんや。千里を遠しせず、行て師とし尊トバむ。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.100~101)

 路通の句に血脈がないというのは何をもって言っているのか。根拠は示されてないし、示すことはできないだろう。自分を基準にすれば、自分と異なる才能は自分の血脈ではない。それだけのことだ。
 許六が路通を嫌っているのは嫉妬ではないかと思う。藩の家老まで務めた我が身が芭蕉になかなか会うことすら出来なかったのに、乞食坊主の分際で古くから芭蕉にぺったりくっついている。それだけでも憎むのに十分だ。
 それに加えて、いわゆる乞食坊主に対する差別の感情も否定できないだろう。乞食坊主が乞食坊主らしく生きていればまだ怒りも込み上げないが、それが芭蕉の高弟のような顔しているから余計憎いに違いない。
 ただ、その本音はあくまで隠し、「血脈ノ句いひ出さば、三神をかけて予一番に門弟と成ル」何ていっているが、血脈の匂いを出しても全力でそれを否定する理屈をこしらえるに違いない。
 「行跡の事ハ、予少も心にかけず」と言うが、本当だろうか。

 「路通・洒堂ごときの者、一生の行跡嘸々乱随ならん。是少も予が障に成事ニ非ズ。
 此路通といふ者を見るに、俳諧も乱随也。一ツとしてとる所なし。
 しかれ共、先生ハ急度路通・洒堂のごときの者をにらミ、法を正敷し給ふ事、尤至極也。
 先生法をミだり給ふ時ハ、末々の門人猶ミだりに成て法を失ひ侍るべし。
 湖南の門人、洒堂を本のごとくに用ひ給ふ事、翁存命ニおいてハ、湖南の衆かくハちなみ給ふ事成まじ。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.101)

 「随」は従うことをいう。「乱随」となると、乱れたままにしておくこと、勝手気ままにふるまうことをいう。自由は誰もが求めるものだが、家老職の窮屈な生活を強いられてきた許六には、嫉妬の対象以外ではなかったのだろう。
 路通・洒堂に限らず、其角・惟然など、許六はこういう自由に生きている人間が癪に触ってしょうがなかったのだろう。
 洒堂は之道との確執があり、芭蕉の最後の大阪行きの時、二人を仲直りさせようとしたが不調に終った。洒堂も相当に一癖も二癖もある人物だったのだろう。ただ、芭蕉はその才能を認めていた。
 「医者の袷」の句は許六にとっては単なるネタ以上に揶揄する気持ちがあったのかもしれない。
 路通の場合、許六だけでなく他の門人とも確執があったが、これは単に素行の問題だけでなく出自の問題があった可能性がある。つまり被差別民だったのではなかったか。以前筆者も冗談で路通サンカ説があれば面白いとか言ったが、路通の嫌われ方や信用のなさは差別と関係があると考えた方が説明しやすい。
 「斎部」という失われた「姓」で呼ばれていたあたりも、その関係なのかもしれない。古代から続く斎部氏の末裔というところに、特殊な家柄という意識を持っていたのだろう。
 何で『奥の細道』の同行者が急遽曾良に変わったかについても、芭蕉や其角は気にしてなくても、やはり気にする門人が多かったのだろう。

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