いつのまにかあちこちで河津桜が満開になっている。仕事で通り過ぎるだけでなく、じっくり見に行きたいな。
それでは「此梅に」の巻の続き。
三裏に入る。
六十五句目。
多くは傷寒萩の上風
一葉づつ柳の髪やはげぬらん 信章
コトバンクの「脱毛症」のところの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」には、症候性脱毛症として、
「腸チフスや肺炎などの熱性伝染病、結核、らい、梅毒などの慢性感染症、エリテマトーデス、皮膚筋炎、強皮症、糖尿病、内分泌疾患などの全身病、放射線照射、局所の外傷、熱傷、真菌や細菌感染症、腫瘍(しゅよう)などのほか、抗腫瘍薬などの薬物による脱毛も含まれる。」
とある。「傷寒」で禿げることもある。
六十六句目。
一葉づつ柳の髪やはげぬらん
これも虚空にはいしげじげじ 桃青
前句を脱毛の比喩ではなく柳の散る情景として、きっと空にゲジゲジがいるのだろうと展開する。昔は「ゲジゲジに舐められると禿げる」という俗説があった。
六十七句目。
これも虚空にはいしげじげじ
判官の身はうき雲のさだめなき 信章
昔はゲジゲジのことを「梶原」と言ったという。
コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
① 梶原景時の故事から、意地悪な人、いやみな人をいう。
※雑俳・柳多留‐二(1767)「梶原と火鉢の灰へ書て見せ」
② 「げじ(蚰蜒)」の異名。
※俳諧・大坂独吟集(1675)下「長崎よりものぼるまたう人 耳のあか取梶はらではやるらし〈重安〉」
※雑俳・削かけ(1713)「そりゃそりゃそりゃ・びしゃもんさまかかぢはらか」
[補注](二)①は梶原景時が義経を讒言した故事によるが、(二)②には諸説があり、①と同様の理由とも、梶原氏の矢筈紋の見立によるともいう。また、「和漢三才図会‐五四」によれば梶原景時が、讒言を将軍の耳に入れ害をなしたため、人々がゲジゲジにたとえてきらったのでこう呼ぶようになったともいい、「譬喩尽‐二」の「梶原を蚰(げじげじ)といふことは名乗なり景時々々(ゲジゲジ)」などからともいわれる。
とある。「下知下知」から来たという説もある。
判官(源義経)の身が定めなきというのは、「梶原景時の讒言」によるもので、ウィキペディアには、
「『吾妻鏡』にある合戦の報告で景時は「判官殿(義経)は功に誇って傲慢であり、武士たちは薄氷を踏む思いであります。そば近く仕える私が判官殿をお諌めしても怒りを受けるばかりで、刑罰を受けかねません。合戦が終わった今はただ関東へ帰りたいと願います」(大意)と述べており、義経と景時に対立があったことは確かである。
この報告がいわゆる「梶原景時の讒言」と呼ばれるが、『吾妻鏡』は「義経の独断とわがまま勝手に恨みに思っていたのは景時だけではない」とこれに付記している。」
とある。
六十八句目。
判官の身はうき雲のさだめなき
時雨ふり置むかし浄瑠璃 桃青
浄瑠璃は去年の九月五日の俳話で、『俳諧問答』で許六が「浄瑠璃の情より俳諧を作り」といっていたところで、
「浄瑠璃は「浄瑠璃姫十二段草紙」などを語る琵琶法師に端を発し、みちのくの奥浄瑠璃は芭蕉も『奥の細道』の旅の途中に耳にしている。
貞享のころから竹本義太夫と近松門左衛門が手を組んで大きく発展させた。」
と書いたが、この両吟百韻の頃にはまだ竹本義太夫や近松門左衛門は台頭してきていない。ただ、浄瑠璃会に新風を望む機運はあっただろう。
それに対して昔の浄瑠璃といえば「浄瑠璃姫十二段草紙」で、これは浄瑠璃御前(浄瑠璃姫)と牛若丸(義経)の物語だった。
六十九句目。
時雨ふり置むかし浄瑠璃
おもくれたらうさいかたばち山端に 信章
「らうさいかたばち」は弄斎節と片撥。
「弄斎節」はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、
「日本の近世歌謡の一種。「癆さい」「朗細」「籠斎」などとも記す。その成立には諸説あるが,籠斎という浮かれ坊主が隆達小歌 (りゅうたつこうた) を修得してそれを模して作った流行小歌から始るという説が有力である。元和~寛永年間 (1615~44) 頃に発生し,寛文年間 (61~73) 頃まで流行したものと思われる。目の不自由な音楽家の芸術歌曲にも取入れられ,三味線組歌に柳川検校作曲の『弄斎』,箏組歌付物に八橋検校作曲の『雲井弄斎』および倉橋検校作曲の『新雲井弄斎』,三味線長歌に佐山検校作曲の『雲井弄斎』 (「歌弄斎」ともいう) などがあるが,いずれも弄斎節の小歌をいくつか組合せたものとなっている。流行小歌としての弄斎節は,いわゆる近世小歌調の音数律形式による小編歌謡で,三味線を伴奏とし,初め京都で流行,のちに江戸にも及んで江戸弄斎と称し,それから投節 (なげぶし) が出たともされる。」
とある。
「片撥」もコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、
「江戸時代初期の流行歌。寛永 (1624~44) 頃から遊郭で歌われだした。七七七七の詩型のものをいう。」
とある。
こういう時代遅れのものと一緒に浄瑠璃を並べたが、許六も案外こういう古臭い浄瑠璃のイメージをそのまま引きずっていて、義太夫や近松を知らなかったのかもしれない。
七十句目。
おもくれたらうさいかたばち山端に
松ふく風や風呂屋ものなる 桃青
今年の一月十日の俳話で『俳諧問答』に引用された、
物の時宜も所によりてかハりけり
難波のあしを伊勢風呂でえた 常矩
の句のところで、「江戸の湯屋とちがい、上方の風呂屋では湯女という垢かき女がいて、売春も行われていたという。」と書いたが、この「風呂屋もの(風呂屋者)」は湯女の別名だった。江戸にも多少はいたのか、それとも上方から伝え聞いたものか定かでない。
古びた弄斎・片撥などの小唄に遊女ではなく湯女を出すのが今風か。
このあたりの展開の仕方は、秋の暮れ→荻の上風→一葉→虚空→浮雲→時雨→山端→松ふく風といった古典のわりとありきたりな連想で句を繋いで、そこに飢饉→傷寒→はげ→ゲジゲジ→判官→浄瑠璃→弄斎・片撥→湯女と当世流行のネタを展開している。
単純な展開の仕方なので、短時間にたくさんの句を詠むには適したやり方だったのだろう。多分矢数俳諧でもこうした付け方が多用されたのではなかったかと思う。
この方法で今風の連句を作るなら、こんな感じか。
内戦に瓦礫ばかりの秋の暮れ
飢餓の子供に萩の上風
一葉づつ柳の舟の海を越え
虚空たなびくリベラルの旗
あの国はブレクジットの浮雲に
時雨てゆくはエレキの調べ
泥臭い演歌シャンソン山の端に
松吹く風はキャバクラ嬢か
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