2019年2月3日日曜日

 今日は寄(やどりき)の蝋梅を見てから曽我の梅林に行った。蝋梅は満開で、梅は三分咲きと言ったところか。
 ただ梅は木によって遅速があるため、満開の木もあれば咲いてない木もあり、三分咲きの木、五分咲きの木など様々で、全体として見れば三分かなくらいのところだ。

 二もとの梅に遅速を愛す哉      蕪村

の句もあるが、三万五千本という梅林になっても梅の遅速を見ることができる。
 今日もまた春をフライングゲットした所で『俳諧問答』も機嫌よく行ってみよう。

 「人間生じて後目鼻なくば、人間の用ニハたたず。目鼻拵置て、人間を又作るべしや。
 五臓・五体兼備に寄て、人間成就し出生する也。
 句において、少もかはる事あるましじ。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.98)

 「人間生じて後目鼻なくば」というのは、別に目鼻を病気や事故で失う可能性のことを言っているのではない。それは本来あるべきものが偶然失われているというだけのことで、目鼻のない新種の人類が誕生しているのではない。
 たとえ五体不満足であっても、その遺伝子は五体不満足の子を生むことはない。それは乙武さんが証明している。
 LGBTにしてもべつに男でも女でもない別の性があるのではない。男として生まれ、あるいは女として生まれながら、脳の発達過程で偶発的にさまざまな性的志向が生まれるにすぎない。ゲイのカップルだからといってそこからゲイが生まれてくるわけではない。
 あらかじめ遺伝子の構造が全く異なっているなら、「人間の用ニハたたず」ということになる。サルに人間の目鼻を移植しても人間にはならない。
 ここで許六は不易流行もそのようなもので、元となる血脈が備わらないなら、不易も流行もなく、そこにあとから不易と流行を移植しても意味がないと考える。
 ただ、この喩え自身、不易流行説を説明するのに妥当ではない。
 芭蕉に血脈論があったとしても、血脈から不易・流行の二つの体に分かれるのではない。むしろ不易を深めていった結果として血脈に至るだけで、古典の不易に対して新作の流行を対比するやり方から、古典の底に血脈を見ることができる一方、古典といえども過去の流行にすぎないという所で、古典であろうが新作であろうが、時代を超えた不易を発見することが重要というところに至ったと思われる。
 古典の中にも流行を見、流行の中にも不易を見ることから、古典流行の底に真の不易を見出し、すべてを流行と見定めたのではなかったかと思う。
 同じ人間の遺伝子を持っていても、様々な人種、民族が生まれ、その中でも様々な個性を持つ人間がいて、結局一人として同じ人間はいない。
 それと同じで、古代から現代に至る様々な文学芸術があり、世界を見ればまたそこにさまざまな文学芸術がある。それぞれの文学芸術は流行にすぎないとしても、その根底は結局一つ、同じ人間の遺伝子から発している。
 それなら去来が不易の体、流行の体の句を作ったとしても、去来が人間である以上生まれながらに血脈を供えているのだから、何ら問題はないはずだ。一体何が問題なのだろうか。
 許六は結局血脈を二重の意味で用いてダブルスタンダードにしている。
 一方で血脈は人類普遍のものでありながら、一方では師匠から弟子へと継承される一種の家元の継承と見ている。
 句作一般を論じる時は前者で血脈を用い、自分と去来との違いを言うときには後者の意味で用いている。

 「先書ニ云ク、不易・流行を貴トせず共いへり。又何ゾいやしとせざらんや。
 不易・流行とわかれざる以前に、妙句あるまじき事ニあらずといひたるハ、血脈の正シキ所をさしていふ也。以前といふハ血脈の事也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.98)

 芭蕉が不易流行を言わなくなったからといっても、それは不易流行を賤しいと思ったからではないのは言うまでもない。
 「不易・流行とわかれざる以前」というのは、不易流行説が立てられ、不易体と流行体が意識して区別されるようになる以前という意味なら正しい。しかし明確に意識されてなくても、似たような発想は昔もあったかもしれない。
 それは正岡子規が写生説を説く以前に写生はなかったかというと、意識されてなかったというだけで写生的な句は存在する。それと同じだ。
 ただ、ひとたび写生説が立てられると、以前には存在しなかった写生説の価値観によって古典の句の良し悪しが判断されるばかりか、写生でなかった句までが強引に写生と解釈されてしまうことになる。これは法の遡及のようなものだ。
 万葉集や蕉門の俳諧を写生説で読解し価値判断をするのは、写生説が事後法であり遡及法であるという点で問題がある。
 不易流行説をそのような遡及法として過去の作品に用いるなら、確かにそれは正しくない。ただ、去来は決してそのようなことを行ってない。許六の作った藁人形だ。
 「血脈の正シキ所」は不易と言ってもいい。

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