俳句を国連教育科学文化機関(ユネスコ)無形文化遺産にという動きが主要俳句四協会と伊賀市を中心にあるらしい。近代俳句はますます世界で盛んになることだろう。その一方で俳諧は様々な誤解や偏見の中で未だに見向きもされず、そのうち似て非なる現代連句を世界遺産になんてなるんだろうな。
不肖鈴呂屋こやんただ一人、今日も俳諧の復興に努めたいと思う。本当に世界遺産の価値があるのは俳句ではなく俳諧だと信じるから。
そういうわけで、「木のもとに」の巻の続き。
二十五句目
気おもに見ゆる脇息のうへ
かけがねのひとりはづれし夕嵐 三園
(かけがねのひとりはづれし夕嵐気おもに見ゆる脇息のうへ)
前句に恋の雰囲気を読み取っての付けで、脇息に寄りかかって物憂げに待っていると、門の掛け金がはづれたので、思う人が来たのかと思ったら風のせいだったというところか。
無季。
二十六句目
かけがねのひとりはづれし夕嵐
香(かをり)しみたるちんの首たま 木白
(かけがねのひとりはづれし夕嵐香しみたるちんの首たま)
掛け金が外れたのは狆(ちん)が帰ってきたからとした。猫でも自分でドアを開けたりするように、狆も賢いから自分で掛け金をはずすことを知っているのだろう。
「首たま」は首輪のこと。浮世絵など見ても狆は布製のひらひらした首輪をつけて描かれている。大奥でも飼われていたし、吉原でも飼われていたという。ひらひらした首輪には香が焚き込んであったりしたのだろう。
無季。「狆」は獣類。「首たま」は衣装。
二十七句目
香しみたるちんの首たま
はり道を傘(からかさ)指てひとひつき 良品
(はり道を傘指てひとひつき香しみたるちんの首たま)
「はり道」は「墾道」と書く開墾された道のことだが万葉時代の言葉で、伊賀の方ではそういう古い言葉が生きていたのか。土芳も十六句目で「わぎもこ」という言葉を使っている。
「はり道」というと『万葉集』の、
信濃道は今のはり道刈りばねに
足踏ましむな沓はけ我が背
しか思い浮かばないが、他に用例はあるのだろうか。
古代の駅路は幅6メートルから12メートルの舗装道路だったが、こうした帰化人などによって担われてきた道路技術は次第に失われ、時代が下って新しく開かれた道は切り払った枝や何かが残っていて靴がなければ歩けなかったのだろう。
この句では多分そういうこととは関係なく、新しい綺麗な道を粋な唐傘を差して一日過ごす貴人のイメージで詠んだのだろう。前句の首輪に香を炊き込めた狆から、それを連れて歩く人の位で付けている。
当時唐傘はまだ高級品で、一般に普及するのは江戸中期からだった。
無季。「唐傘」は衣装。
二十八句目
はり道を傘指てひとひつき
飯のこわきをこのまれにける 土芳
(飯のこわきをこのまれにけるはり道を傘指てひとひつき)
前句の「はり道」から古代の旅人に転じたか。だったら飯といえば甑で蒸した強飯だろう。土芳は「判官の烏帽子」の句といい「わぎもこ」の句といい、古代史マニアだったか。
ここまで無季の軽い句の連続は『炭俵』の「雪の松」の巻の二表を髣髴させる。あるいは、この懐紙自体が元禄三年ではなく、かなり後になって付け足された可能性もある。
無季。
二十九句目
飯のこわきをこのまれにける
月影に燈籠張て泣暮し 三園
(月影に燈籠張て泣暮し飯のこわきをこのまれにける)
月の定座だが、「燈籠」が出てくるようにこの月は旧暦七月のお盆の月だ。姫飯(釜で炊いた飯)など軟弱なものが食えるか、と言っていた昔かたぎの祖父のことでも思い出して、涙していたのだろう。
季題は「月影」で秋。夜分、天象。
三十句目
月影に燈籠張て泣暮し
髪筋よりもほそき秋風 芭蕉
(月影に燈籠張て泣暮し髪筋よりもほそき秋風)
さて、久しぶりの芭蕉さんの登場だ。特に目新しいものを付けず、前句の泣き暮らす人を女性に取り成し、その髪の毛よりも心細い秋風として、さらっと流している。この辺の展開の仕方は手馴れたものだ。
季題は「秋風」で秋。
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