2017年10月8日日曜日

 今日はちょっと趣向を変えて、中世連歌の付け筋を見てみようと思う。
 宗砌の『初心求詠集』はタイトルのとおり、初心者向けの解説で、今日の連歌に興味持つ者が学ぶにはちょうどいい。
 そのなかで「てには」の使い方について、いかに中世の人が研究していたかを見てみよう。

 「一、こそ付の事
     風こそのこる花をたづぬれ
   山里を春に契し人はこで
     霜こそむすぶ枕なりけれ
   寒夜の鐘の音には夢もなし
     あまりあるこそうらみなりけれ
   あふ夜はのやかてはなどや明ぬらん
 是は各々、こそに当りて付たるなり、口伝あり、」

 前句が「こそ」でもって強調されているときは、「何々ではなく、何こそが」という風に、前句に否定するべき内容を持ってくる。
 「風こそのこる花をたづぬれ」、残った花を尋ねてくるのは風だけとなれば、何かが尋ねてこなくて風だけがと展開できる。そこで「契りし人はこで、風こそ」となる。
 「霜こそむすぶ枕なりけれ」、枕に結ぶのは霜だけとなれば、何が結ばずにということを付ければいい。寒い夜の夜明けを告げる鐘の音には、すっかり夢も醒めてしまい、霜だけが、となる。
 「あまりある」は度を越えたということで、この場合は度を越えてない、常のことを付ければいい。愛しい人と逢う夜半は何ですぐに明けてしまうのだろうか、それにしても短すぎる、と付く。
 湯山三吟の十三句目に、

   世にこそ道はあらまほしけれ
 何をかは苔のたもとにうらみまし   肖柏

という句があるが、これもまた、「こそ」に否定の「うらみまし」を付け、夜を捨てた苔の袂にではなく世にこそ道は、と付く。

 「一、こそをもて付事
     霜にみゆるや枯野なるらん
   雪にこそ山の遠きはしられけれ
     雲の残るや又時雨らん
   我をこそふりぬる身とはおもひしに
     あまや衣をなをぬらすらむ
   心ある人こそうきをしるべきに」

 これは逆に「こそ」を付ける方法で、前句が「らん」止めで疑問だった場合には、反語に取り成して「何々だろうか、そうではない、何々こそ」と付ける。
 霜が降りているように見えるのは枯野だろうか、そうではない、雪だからこそ山がまだはるか遠くだとわかる。
 雲が残っているが又時雨になるのだろうか、そうではない、雲は煩悩の雲で自分自身にこそ時雨がふっているからだ。
 海女は衣をさらに濡らすのだろうか、そうではない、衣を濡らすのは心ある都人でなくてはならない。
 ただ、『水無瀬三吟』の十三句目、

   移ろはむとはかねて知らずや
 置きわぶる露こそ花にあはれなれ   宗祇

の場合は前句の「や」を反語ではなく疑問に取り成し、「花に置きわぶる露こそあはれなれ、移ろはむとはかねて知らずや」としている。「あわれなれ」「かねて知らずや」で、ちゃんと繋がっている。これは「初心」ではなく高度な付け方だ。
 どちらも、上句と下句がきれいに繋がるように工夫されている。

 山里を春に契し人はこで風こそのこる花をたづぬれ
 寒夜の鐘の音には夢もなし霜こそむすぶ枕なりけれ
 あふ夜はのやかてはなどや明ぬらんあまりあるこそうらみなりけれ
 雪にこそ山の遠きはしられけれ霜にみゆるや枯野なるらん
 我をこそふりぬる身とはおもひしに雲の残るや又時雨らん
 心ある人こそうきをしるべきにあまや衣をなをぬらすらむ

 こういう上句下句合わせてすらすらと読み下せる付け方を中世連歌では良しとした。そのために「こそ」は否定か反語で受け、「らん」は反語にして「こそ」で付けるというのが、一つの付け筋とされていた。

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