今日は台風一過のいい天気だったが、なぜか富士山は黒い姿に戻っていた。地上では木枯らしが吹いているというのに。
さて、「猿蓑に」の巻、二の裏に入り、一気に挙句の果てまで。
三十一句目
寝汗のとまる今朝がたの夢
鳥籠をづらりとおこす松の風 惟然
松風のシューシュー言う悲しげな音は無常の音。それは悟りの音でもある。
深くいりて神路のおくをたづぬれば
また上もなき峯の松風
西行法師
の歌もある。無常を悟った時に無明の悪夢から目覚める。
それだけだと説教臭くなるので、夢から醒めて悟りを得る心を裏に隠しながらも、鳥籠の鳥の鳴き声に目覚める普通の朝の情景に作っている。
惟然は俳号としては「いぜん」と読むが僧侶としては「いねん」と読む。その僧侶としての「いねん」を覗かせる一句だ。
三十二句目
鳥籠をづらりとおこす松の風
大工づかひの奥に聞ゆる 芭蕉
かごの鳥たちが鳴き出す頃、大工さんも朝早くから仕事を始める。まさに朝飯前の仕事だ。
三十三句目
大工づかひの奥に聞ゆる
米搗もけふはよしとて帰る也 支考
「米搗」は精米作業のことで、臼に玄米を入れて杵で叩く。昔は玄米のまま保管し、その日使用する分だけを搗いていた。都市ではお米屋さんが来て搗いてくれたりもしたのだろう。
大工さんもトントントン、米搗きもトントントンで、文字通り響きで搗く。
三十四句目
米搗もけふはよしとて帰る也
から身で市の中を押あふ 芭蕉
ここで順番が変って、惟然が付けるべき所に芭蕉さんが来ている。おそらく花の定座を惟然に譲るためだろう。これまで芭蕉は花一句月二句を詠み、支考が月を一句詠んでいるが、惟然はどちらも詠んでいない。
句は米搗きを終えて帰るお米屋さんが手ぶらで市場の中を通り過ぎるというだけのやり句で、花呼び出しと言えよう。賑わう市はまさに人の花。さあ、惟然さん、どんな花を咲かしてくれるのか。
三十五句目
から身で市の中を押あふ
此あたり弥生は花のけもなくて 惟然
ちょっ、待てよ、そりゃないだろうって、花を出さないの?
まあ、この肩透かし感は斬新だったのかもしれない。
陸奥の方の花の遅い地方をイメージしたのだろう。花は咲かなくても市場は人で賑わっている。人の花にやがて咲くべき桜の花の匂いだけを付けたこの意外な展開に、芭蕉さんも「これもありか」と驚いたかもしれない。利休の水盤の一枚の花びらのような句だ。
挙句
此あたり弥生は花のけもなくて
鴨の油のまだぬけぬ春 支考
春の遅い地方ということで、鴨の油も抜けない春と結ぶ。
鴨は冬にたっぷり脂肪をつけ、春になると減らしてゆく。
この句に春の目出度さが欠けているという人がいるみたいだが、とんでもない。春になってもまだたっぷり油の乗った鴨が食べられるって、目出度いじゃないか。
最後の二句は伝統的なパターンを思いっきりはずした実験的な終わり方で、芭蕉はこの二人に後の俳諧を託したのであろう。
ただ、芭蕉亡き後、待っていたのは分裂だった。「大せつな日が二日有暮の鐘」の咎めてにはは結局芭蕉の弟子たちには効果なかったようだ。
これから大阪へ酒堂と之道の喧嘩の仲裁に行くのだが、これも芭蕉さんのいる時だけは仲直りしたふりして、結局不調に終わる。幸いなのは、芭蕉さんが弟子たちの分裂の中で衰退してゆく俳諧の姿を見ずにすんだことくらいか。
0 件のコメント:
コメントを投稿