『俳諧問答』の続き。
「去来問云、師の風雅見およぶ処、次韻にあらたまり、実なし栗にうつりてより以来、しばしば変じて、門人その流行に浴せん事をおもへり。吾これを聞けり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.31)
ここからが其角への質問状になる。
去来は慶安四年(一六五一)の生まれ、其角は寛文元年(一六六一) の生まれで、意外にも去来のほうが十歳も年上になる。
其角は自選の発句集『五元集』の序文に「延宝のはじめ桃青門に入しより」と書いているように、大体数えで十五前後の元服の頃に既に桃青(芭蕉)に入門していたと思われる。
ただ、其角の作品が世に出るのは、『元禄の奇才 宝井其角』(田中善信著、二〇〇〇、新典社)によれば、延宝七年刊の才丸編『坂東太郎』で、
雁鹿虫とばかり思ふて暮けり暮 其角
朝鮮の妹や摘むらん葉人参 同
の句がある。
「雁鹿虫」の句は雁と鹿と虫とばかり思って暮れた(秋の)暮れで、暮秋の句だが「秋」が抜けている。
葉人参はよくわからないが、人参は十六世紀に日本に伝来し、今の金時人参に近く、昔は葉も食べていたという。これに対しいわゆる朝鮮人参(オタネニンジン)が栽培されるようになったのは将軍吉宗の頃からだった。
漢方薬としての朝鮮人参は古くから知られていたので、普通の人参の葉を見て、朝鮮でも食べるのだろうか、と詠んだのだろう。
延宝八年には『桃青門弟独吟二十歌仙』が刊行され、ここで、
月花ヲ医ス閑素幽栖の野巫の子有 螺舎
を発句とした独吟歌仙が発表されている。号は其角でなく螺舎の名義になっている。巻頭が杉風で其角(螺舎)は十四番目だった。
その其角の名を一躍有名にしたのは、翌延宝九年刊の桃青編『俳諧次韻』だった。桃青(芭蕉)、其角、才丸、揚水の四人による、これまでの談林調を抜け出した、シュールで様々な文字表記上の実験が為された二百五十句は、桃青(芭蕉)の新風を広く世にアピールするものだった。
そしてこの風は更に其角編の『虚栗(みなしぐり)』へと発展し、いわゆる天和調を確立した。
去来が「師の風雅見およぶ処、次韻にあらたまり、実なし栗にうつりてより以来」という時、其角は間違いなくその最前線にいた。
そして、「門人その流行に浴(あび)せん事をおもへり。」と、その流行の最前線に立って、当時の俳諧に水を浴びせていったのは他ならぬ其角だった。「吾これを聞けり。」と、去来は俳諧に関心は持っていたが、まだ武士を辞め、堂上家で陰陽道などを習っていた頃だった。やがて貞享の頃、其角を介して芭蕉に入門し、貞享三年の『蛙合』に参加している。そのときの句は、
一畦はしばし鳴やむ蛙哉 去来
芭蕉は貞享三年閏三月十日付去来宛書簡で、
「御秀作度々相聞、千里隔といへども、心一に叶時は符節と合候而、毫髪可入處無之、近世只俳諧之悟心明に相きこへ候而、爰元連衆、別而は文鱗・李下よろこぶ事大に御坐候。此度蛙之御作意、爰元に而云盡したる様に存候處、又々珍敷御さがし、是又人々驚入申し候。当秋冬晩夏之内上京、さが野の御草庵に而親話盡し可申とたのもしく存罷有候。さがへ、キ丈御方へ参候事は其元に而もさたなきがよく候。」
と賛辞を送り、近々京都嵯峨野の落柿舎に合いに行くと言っている。
貞享四年の冬、芭蕉は『笈の小文』の旅に出、翌貞享五年四月二十三日に京に入っている。このとき芭蕉は落柿舎をたずねたものと思われる。
0 件のコメント:
コメントを投稿