前の日記に書いたことを時々すっかり忘れていることがあるが、立秋の句も去年の八月二十五日にも書いていた。
そのときは「粟ぬか」の句にところで、
「粟は夏に種を蒔いて二ヶ月くらいで収穫できる。秋風に頃には脱穀した後の粟の殻が風に吹かれていたのだろう。」
と書いていた。
多分こちらの方が正しかったと思う。
芭蕉の時代の粟の栽培は今とは随分と違っていたから、旧暦七月に収穫することは珍しくもなかったようだ。
芭蕉よりは一世紀後だが曲亭馬琴の『増補 俳諧歳時記栞草』の夏之部の「粟蒔」のところにこうある。
「早(わせ)、中、晩(おくて)あり。三月種(うう)るものを上時とす、五月熟す。四月種るものを中時とす、七月熟す。五月種るものを下時とす、八月熟す。」
とある。
去年の五月二十三日の日記の蕪村・几董の「牡丹散り」の巻、二十二句目に、
粟負し馬倒れぬと鳥啼て
樗(あふち)咲散る畷八町 几董
と、粟を運ぶ馬に夏の季語である「樗(あふち)」を付けている。
また、『炭俵』の「雪の松」の巻の六句目には、
身にあたる風もふハふハ薄月夜
粟をかられてひろき畠地 利牛
の句がある。これは月の句につけているので旧暦八月頃になる。
曲亭馬琴の『増補 俳諧歳時記栞草』では、「粟穂」は秋之部の七月、「粟引」(=粟刈る・粟干す・粟打つ)は八月になっている。
粟の収穫期は旧暦五月から八月とかなり幅があった。
現代はというと、「みんなの農業広場」というサイトによれば、
「●日本のアワは、栽培上から春アワと夏アワに分けられます。
●春アワは春に播種するアワのことで、北海道・東北地方に主に分布し、一方夏アワは夏に播種するアワで、7月下旬頃の夏に播種するものを指し、九州地方に分布しています。」
とあり、昔と較べるとかなり時期が限定されている。これは常食する穀物としての粟の需要がほとんどなくなったため、早・中・晩に時期をずらして出荷するメリットがなくなったからであろう。
そういうわけで訂正する。
粟ぬかや庭に片よる今朝の秋 露川
粟はイネ科エノコログサ属で猫じゃらし(エノコログサ)に近い。痩せ地に強く、昔は広く栽培されていた。
粟糠はweblio日中・中日に、「脱穀した粟のもみがら」とある。
ただ昔は粟を早(わせ)・中・晩(おくて)と時期をずらして栽培していたために、中の収穫は立秋に前後になる。今では新暦で十月頃で、晩(おくて)のみが残ったといえよう。
収穫した粟は棒で打って脱穀する。このときの籾殻が庭で秋風に吹かれて一方の隅に吹きだまっている様子を見て、今年も立秋となり、秋風が吹いたんだと、秋風と言わずして秋風を詠んでいる。
「こよみのページ」によれば、元禄七年の七月六日は新暦の八月二十六日になっている。前年の元禄六年だと七月六日は新暦の八月七日なので、この日が立秋だったと思われる。
岩波文庫の『芭蕉書簡集』には、表題には「素覧書簡(元禄七年七月六日)」とあり、
「定本─真蹟(『俳人真蹟全集』第四巻)
名古屋住で露川の門人である素覧が、京都滞在中の芭蕉に宛てたもの。前半を失った断簡である。」
という解説があり、
「被成可被下候。
砂畑に秋立風や粟のから 露川
秋立や竹の中にも蝉の声 素覧
秋たつや中に吹るる雲の峯 左次
七月六日 素覧
芭蕉雅翁
玉几下」
が書簡の本文になる。『続猿蓑』の立秋の二句はこのときのもので、「砂畑に」の句が大幅に直されて採用されたと見ていいだろう。
元禄六年なら芭蕉は江戸にいる。江戸で受け取った書簡が誤って翌年の元禄七年の書簡と伝えられたのか、それとも素覧は一年前の句を送ったのか、また謎が深まった。
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