今日は「カメラを止めるな!」という映画を観た。さすがに話題になっているだけのことはあった。そのうちハリウッドが似たような映画を作ったりしてね。「木更津キャッツ」が「オーシャンズイレブン」になったみたいに。
それでは『俳諧問答』の続き。
「句に千歳不易のすがたあり。一時流行のすがたあり。これを両端におしへたまへども、その本一なり。一なるはともに風雅のまことをとれば也。
不易の句をしらざれば本たちがたく、流行の句をまなびざれば風あらたまらず。よく不易を知る人は、往々にしてうつらずと云ふことなし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.31~32)
不易流行説は芭蕉が元禄二年に『奥の細道』の旅を終え、その後京都落柿舎に立ち寄った時に説いたという。その教えは今日では『去来抄』「修行教」と土芳の『三冊子』「あかさうし」で知ることができるが、それ以降の門人には積極的に説いたようには思えない。そこがこの『俳諧問答』の許六との論点の違いになって現れるし、支考との確執にもつながっていく。もちろん、古くからの門人に浸透してないのも、芭蕉が再び江戸に戻る頃には、それほど不易流行説に固執してなかったからではないかと思われる。
不易流行説は朱子学の影響が濃く、元々そんなに芭蕉的ではない。おそらく『奥の細道』の長旅を伴にした、朱子学系神道の大家である吉川惟足に学んだ岩波庄右衛門(曾良)の影響と思われる。
芭蕉自身はこまごまとした理屈にはこだわらず、その時その時で教え方が変わっていったと思われる。
不易流行に関して、『去来抄』「修行教」と土芳の『三冊子』「あかさうし」の記述はよく似ていて、同時期に説いたものと思われる。
『去来抄』「修行教」の冒頭にはこうある。
「去来曰、蕉門に千歳不易の句、一時流行の句と云有。これを二ッに分つて教へ給へども、其基は一ッ也なり、不易を知らざれば基(もとゐ)立がたく、流行を辧(わきま)へざれば風あらたならず。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,61)
そして『三冊子』「あかさうし」の冒頭にはこうある。
「師の風雅に万代不易有。一時の変化あり。この二ツに究り、其本一也。その一といふは風雅の誠也。不易をしらざれば実に知れるにあらず。」
芭蕉自身はこれに類する言葉を書き残していないが、近いものとしては、『笈の小文』の次の文章であろう。
「西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、其の貫道する物は一(いつ)なり。しかも風雅におけるもの、造化(ぞうか)にしたがひて四時(しいじ)を友とす。見る処花にあらずといふ事なし、おもふ所月にあらずといふ事なし。像(かたち)花にあらざる時は夷狄にひとし。心花にあらざる時は鳥獣に類ス。夷狄を出で、鳥獣を離れて、造化にしたがひ造化にかへれとなり。」
この文章がいつごろ書かれたのかははっきりしない。おそらく『奥の細道』が書かれたとされる元禄五年の夏までには書かれていたのではないかと思われる。
おそらくは実際の貞享四年から五年にかけての旅の途中から断片的に書き溜めていたものを、少しづつ改稿を繰り返しながらまとめていったものと思われる。
芭蕉のこの『笈の小文』の文章からすると、不易と流行の本の一なるものは俳諧に限らず、すべての文化芸術の根底にある一であり、「風雅の誠」もまたそういう性質のものと思われる。風雅に限定されるものではなく、ごく一般的に朱子学でいう「誠」と同一と見てもいいのかもしれない。それは人間を人間たらしめているものと言ってもいいのだろう。
簡単に言えば、それは生物界の一般的な生存競争に対する「目覚めた意識」なのかもしれない。
それに較べると、『去来抄』「修行教」の「基(もとゐ)」の解釈は、和歌連歌の五七五の形式や雅語を基礎とした文章といったかなり狭い解釈ではないかと思われる。
基(もとゐ)のこうした形式的な解釈は、去来の不易流行論を限界付けている。
たとえば、『去来抄』「同門評」の、
応々といへどたたくや雪のかど 去来
の句にしても、丈草は「此句不易にして流行のただ中を得たり」と不易流行の句として評価しているが、そのほかの門人の評価は一定しない。
この句は、
嘆きつつひとりぬる夜のあくる間は
いかにひさしきものとかは知る
右大将道綱母
の歌を踏まえているというが、元歌の恋の情と、単に雪の外で待たされている日常の光景とは情の深さが違いすぎる。去来にとって不易はいつの時代でもどこの国でも変わらないような、恋するときのあの切ない気持ちではなく、あくまで待たされているという外見的な一致にすぎなかった。
同じ「同門評」の、
時雨るるや紅粉(もみ)の小袖を吹かへし 去来
の句にしても、これが、
ほのぼのと有明の月の月影に
紅葉吹きおろす山おろしの風
源信明
の歌によるとしても、風に紅葉と、風に「紅粉の小袖」ではまったく情が違う。去来が不易をあくまで形式的にしか理解していず、情として捉えてなかった所に決定的な間違いがあったのではないかと思う。
おそらく単純な日常的なあるあるネタの句をどう不易に結びつけてよいのか、そこが理解できなかったのではないかと思う。
あるあるネタは芭蕉が古くから得意としていた笑いのパターンだが、蕉風確立期から付け句の方で重視されてきたものの、発句に取り入れられるようになったのは芭蕉が不易流行を説き出した後の『猿蓑』の頃からで、特に凡兆がその方面で才能を発揮した。
元禄三年の九月に堅田で詠んだ、
病鴈のよさむに落て旅ね哉 はせを
あまのやハ小海老にまじるいとど哉 同
の二句についての、『去来抄』「先師評」の、
「さるミの撰の時、此内一句入集すべしト也。凡兆曰、病鴈ハさる事なれど、小海老に雑(まじ)るいとどハ、句のかけり事あたらしさ、誠に秀逸也と乞。去来ハ小海老の句ハ珍しいといへど、其その物を案じたる時ハ、予が口にもいでん。病鴈は格高く趣(おもむき)かすかにして、いかでか爰(ここ)を案じつけんと論じ、終に両句ともに乞て入集す。其後先師曰、病鴈を小海老などと同じごとくに論じけりと、笑ひ給ひけり。」
はそれをよく表している。
芭蕉の古池の句もあるあるネタであることには変りないが、そこに在原業平の「月やあらぬ」の情を潜ませることで、流行と不易を両立させた。
しかし、『猿蓑』の新風の時には、この不易の情の要件はかなり緩くなっていて、その分発句が身近で作りやすいものになった。
実際に発句の数も増え、趣向も多様になった。夏といえばそれまでは主人のもてなしに感謝する意味で涼しさを詠むのが普通だったが、『猿蓑』からは暑さの苦しさもテーマとなった。確かに夏の暑さの苦しさは昔も今も変わるまい。
そうなると一体何が不易なのか、門人達の間でも解釈が分かれ、かなり混乱が生じたのではないかと思う。
なぜ、
じだらくに寝れば涼しき夕哉 宗次
は良くて、
夕涼み疝気おこしてかへりけり 去来
は駄目なのか、説明するとなると難しい。
根底にあるのが「誠」であるのは間違いないにしても、これだけではやはり漠然としている。
芭蕉よりも早い貞享二年に、伊丹の上島鬼貫も「まことのほかに俳諧なし」と言っている。
芭蕉が次第に不易流行を言わなくなっていったのも、そうした混乱によるものなのかもしれない。許六に教える時は不易流行ではなく血脈の重要性を説き、支考には虚実の論で説明した。血脈は風雅の誠を言い換えたものだろうし、虚実の論は流行を虚、不易を実として説明したものだとすれば、結局は同じことを言っている。
朱子学で言う「理」は西洋の理性とは異なり、メンタルな部分も含んでいる。そのメンタルな側面を「性」と呼び、朱子学を性理の学ともいう。「性理」と「理性」は単に字がひっくり返っただけのものではない。西洋の理性が肉体的な欲望をより効率よく実現するための科学であるのに対し、東アジアの性理は常に人間同士の感情の調整を伴う術策であり、そこには理論だけでは成り立たない機知が必要とされる。
「誠」という言葉も明確に定義したり説明したりはできなくても、ほとんどの日本人は暗黙のうちにそれがどういうものかはわかっている。新撰組の衣装にも背中に誠のもじがあるし、今日の会社のユニホームなどでも背中に大きく「誠」の文字を入れてる会社があったりする。
西洋的な真理とは違い、メンタルな部分を含んだ普遍性を風雅の誠と呼んでいるため、その理解においても人によってかなり差があるのは避けられない。
しかし、こうした普遍性は基本的には生物学的な解明は可能であろう。恋する心の普遍、失恋の悲しみの普遍、花に喜びを見出し、散ったり枯れたりするのを惜しむ感情など、少なからず生物学的な基礎を持っていると考えられる。たとえば、花が快楽なのは、かつて果実食だった頃の名残で、花のある所には必ず実りがあるという経験の積み重ねから、花を見ると脳内物質による快楽報酬が得られるような進化が起こった可能性はある。
理屈で説明できないが人間として普遍的な感情があるとして、一体それはどうすれば証明できるかとなれば、結局それを作品として表現し、多くの人に末永く共感を得られたなら、それは不易だということになる。
芸術の進歩も一種のダーウィニズムで、それぞれの作者が様々な実験を繰り返しながら、その中で多くの人の胸を打ち、記憶に残ることによってその普遍性が証明され、それを次ぎの作者が模倣してゆく。こうして面白いものは残り、複製を生み出し、つまらなかったものは忘却される。これを繰り返すことで芸術は進化する。
流行とは人間のあくなき創造意欲と記憶の限界から来る自然現象で、たくさんの新しい作品が生み出されても、我々はそれをいちいち全部記憶することはできない。その結果新たに作られた作品の大半は作るそばから忘却され、記憶に残ったものだけが生き残る。それを繰り返すことで結果的に時代を超えた普遍的なものが残ってゆくことになる。
ただ、生物の進化でもある時期に大量の絶滅が生じる時がある。恐竜の時代が終って哺乳類の時代が来たように。文化もまた戦争や社会構造の変化によって、それまで発展してきたものが途絶え、また一から別のものが作り直されるときもある。
勅撰集を中心とした和歌の発展は王朝時代が終り文化の中心が武家や地下に移ったときに終わりを告げ、代わりに連歌が台頭することになる。それも戦国時代を経て江戸時代になるとそれまでの社会構造が一変し、急速に大衆文化が広がることで俳諧が盛んになった。
流行とは未来へ向けての様々な新しい実験の繰り返しであり、不易とは同じような過程を経て生き残った過去の作品によって既に証明されているものをいう。
ここで『俳諧問答』の去来の言葉に戻ってみよう。
「不易の句をしらざれば本たちがたく、流行の句をまなびざれば風あらたまらず。よく不易を知る人は、往々にしてうつらずと云ふことなし。」
基本的に新しい作品は実験だから、必ずしも最初に不易を学ぶ必要はない。実験して大衆の支持を得、多くの人の記憶にと留まり、模倣を生めばこの実験は成功したことになる。失敗なら、ただ無視され忘れ去られるのみだ。
だから流行の句を学ぶことには確かに意味がある。学ぶは「まねぶ」であり、成功した作品の模倣をすることで、それが不易である事をあらためて検証することができる。こうして成功した者を真似し失敗したものを捨てて行けば、その芸術は急速な進化を遂げることができる。
不易は試行錯誤を繰り返して勝ち取ってゆくもので、必ずしも最初に学ぶ必要はない。芭蕉も貞門、談林、次韻、虚栗の試行錯誤を繰り返し、やがて古池の句の成功を得、なおかつ新しい実験を繰り返してきた。不易流行に行き着くのはそのあとのことだった。
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