2022年12月2日金曜日

 ドイツに勝ったくらいで祝日だなんて言ってたのがいたようだが、日本はもうドイツにでもスペインにでも勝てるレベルになったんだよ。少なくともたまには勝つくらいのレベルには。でも、優勝したら祝日にしてほしいね。
 やっぱ日本が勝つって気分が良いね。このまま勝ち続けたらみんな気分が良くなるから、日本全体が元気になる。だから勝つって大事なんだよ。
 負けた時にぼろ糞にけなすのも、勝ってほしいからなんだよ。わかってね。勝たなきゃいけないという意識を持ってほしいからね。
 俳句も句合というのは勝負だし、結社で何句選ばれるかも勝負といえば勝負だし、それに執着する気持ちもわかるけど、でも勝つことで誰か喜んでくれるのかなって思うと、勝つ意味というのが分からない。まちがっても日本中が歓喜に包まれるなんてことはないからね。

 それでは「隨縁紀行」の続き。

  「雲名川より天竜へ下るに
 やま風や露うちはらふうんな川 岩翁
 水鏡渦巻かたやむら紅葉    横几

   大イニ切所といふまことに山高鳥不巣水清魚不住
 しかのねや耳にもいらぬ七ッ釜 松翁

   二又川椎河脇の御社は尤切所也
 打櫂に鱸はねたり淵の色    晋子
 淵や瀬やつら打波に凄立    キ翁

   かじま 舟にうつくまりて
 わが笠や膝にきせたる露しぐれ 尺草

   十三夜 浜松にて
 内玄関家老の客や十三夜    キ翁
 のちのつき魚屋尋ねん宿はづれ 松翁
 十三夜出馬の鈴やなみの音   岩翁
 後の月味方か原を人目かな   尺草

   いづれも古郷をかたるに
 後のつき松やさながら江戸の庭 晋子」

 秋葉山の帰りは今の天竜スーパー林道のある方のルートで天竜川の雲名橋の方へ降りたのだろう。浜松に行くにはこっちの方が近道になる。

   雲名川より天竜へ下るに
 やま風や露うちはらふうんな川 岩翁

 山から吹き下ろす風が雲名川の露を打ち払う。「露払い」という言葉があるように、この下りの山道もまた、この山颪の風が露払いをしてくれたのだろう。

 水鏡渦巻かたやむら紅葉    横几

 川の淀んだところは水鏡になって山の紅葉を写すが、やがて岩の間を渦巻き、紅葉の山の映像も乱れて行く。

   大イニ切所といふまことに山高鳥不巣水清魚不住
 しかのねや耳にもいらぬ七ッ釜 松翁

 切所はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「切所・節所・殺所」の解説」に、

 「〘名〙 峠や山道などの要害の地。交通の要所に設けた防御用のとりで。また、難所。
  ※吾妻鏡‐建保元年(1213)五月二日「又於二米町辻大町大路之切処一合戦」
  ※咄本・醒睡笑(1628)一「つづら折りなるつたひ道、人馬の往来たやすからぬ切所(セッショ)あり」

とある。ここでは難所の意味であろう。今は船明ダムの湖になっている辺りは、昔は難所だったのだろう。かつては七ッ釜と呼ばれる洞穴があったか。鹿の声も耳に入らぬ程の難所だったのだろう。山高くして鳥巣まず、水清くして魚住まず。
 山から平野部に出るあたりに今も二俣という地名がある。二俣川が天竜川に合流する。

   二又川椎河脇の御社は尤切所也
 打櫂に鱸はねたり淵の色    晋子

 天竜川は船で下ったのだろう。この辺りでは淵も深くなる。

 淵や瀬やつら打波に凄立    キ翁

 凄立は読み方がわからない。「すさびたち」か。

   かじま 舟にうつくまりて
 わが笠や膝にきせたる露しぐれ 尺草

 二俣の対岸は鹿島という地名になっている。遠州鉄道の西鹿島駅がある。ここで陸に上がって浜松へ向かったのだろう。今も笠井街道という名の道がある。その笠井に掛けて「わが笠や」だったか。
 九月九日の朝、三島で重陽を迎えて其角等御一行は由比まで行き、九月十日に清見潟から宇津の山を越える。そして十一日に小夜の中山を越えて掛川に至り、十二日に秋葉山を詣で、十三日に山を下りて浜松で十三夜を迎える。

   十三夜 浜松にて
 内玄関家老の客や十三夜    キ翁

 十三夜は浜松藩の家老の別邸か何かに呼ばれたのだろうか。内玄関は裏口、勝手口のこと。まあ、俳諧師というのは御用聞きみたいに裏から入るものだったのだろう。
 九月の十三夜は八月十五日の名月に対して「のちの月」と呼ばれる。

 のちのつき魚屋尋ねん宿はづれ 松翁

 別邸だと宿場からは外れた所になる。酒の肴を調達するには不便な所だ。

 十三夜出馬の鈴やなみの音   岩翁

 十三夜のお月見に、馬で浜名湖に行く人もいたのだろう、馬の鈴の音がする。

 後の月味方か原を人目かな   尺草

 浜名湖へ行人は三方ヶ原を通って行く。浜名湖の東になる。

   いづれも古郷をかたるに
 後のつき松やさながら江戸の庭 晋子

 この家老の別邸の松を見ていると、江戸の自分の家を思い出す。其角も親が名医だったから、それなりの家に住んでいたのだろう。

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