2022年12月26日月曜日

 アダム・スミスの『国富論』の労働価値説の説明を読んでいると、穀物を作る農民の労働に相当する価値に準じて職人の労働の価値を定めて、そこから工業生産物の価値を導き出している。
 ただ、穀物の価値は必ずしも一定してはいない。そこで予防線を引いて、

 「だが、時と所が異なる場合、ある程度正確にそれぞれの労働の一般的な価格を知ることは、まず不可能である。系統的に記録されているわけではないが、穀物の一般的な価格は歴史家や他の著述家に広く知られており、かなりの頻度で注目を集めてきている。したがって我々は、穀物の一般的な価格でおおむね満足せざるをえないのだが、その理由は、これがつねに労働の一般的な価格と同じ比率を保つからではなく、一般的に得られる近似値としてもっともその比率に近いという点にある。」

と言っている。
 今のように様々な生産物やその価格の統計が揃ってなかった時代にあって、穀物価格が一番資料が揃っていたというのが一番の原因だったのかもしれない。
 穀物価格は労働価値を反映するもので、新たな鉱山の発見などで変動する金銀の価格よりは経済の指標として相応しい、というのが労働価値説の最初の動機だったのかもしれない。
 日本で言えば石高を経済の指標とするようなものであろう。石高は新田開発によって増えはするが、その分農民の数も増えるので、一人当たりの米の生産高は一定と見なすこともできただろう。
 機械や農薬などの農業革命以前であれば、どこの国でも穀物の一人当たりの生産高は一定で、石高がその国の豊かさを反映すると見て良く、その石高を商品作物や反物やその他の生産物で代替することも日本では行われていた。その代替の際には、それらの生産に必要な労働が穀物生産に匹敵すると見做すというわけだ。
 穀物の価格を基礎にすれば、金銀の価格もそれを産出する労働に換算でき、他の生産物もそれを製造する労働に換算できる。
 ただ、それは理想状態であり、実際には相場はどれも常に変動する。多分そこで長期的に見れば「見えざる手」により均衡へと導かれるということになるのだろう。
 近代経済学は「長期的に見ればみんな死んでる」というところで、不均衡を常態として、その変動を需要と供給の関係で説明するようになった。
 その一方で古典経済学で起きたのは労働価値説のドグマ化ではなかったか。
 いつの間にか労働価値が独り歩きしてしまって、リカードにおいては穀物や生活必需品の価値は労働者の最低限の生活以上の価値を持たないということになり、マルクスはそれ以上の富は搾取によるものと断罪することになった。
 ただ、拡大再生産によって社会は明らかに豊かになって行った。そして労働者もまたいつしか生活必需品以上の様々な価値を求めるようになっていった。そうなると社会主義革命はそれを破壊して元のぎりぎりの生活に戻すための革命になる。「自然に変えれ」という美名のもとに。
 ただ、マルクスが意図したものが、本当にそこだったのかどうか、やはり『資本論』をきちんと検討する必要があるだろう。マルクスが意図したのか、それとも後のマルクス主義者がドグマ化したものなのかを。

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