写真は大観山からの眺め。
あと鈴呂屋書庫に「雪おれや」の巻をアップしたのでよろしく。これで談林十百韻が全部そろった。
そういえばツイッターの方では芭蕉の句を一日八句呟くボットに合わせて、芭蕉になり切ったコメントをするというのをやっているが、その中に、
七株の萩の千本や星の秋 芭蕉
の句があった。
千句くらいある芭蕉の発句をランダムに呟くわけだから、確率的に何度も重複する句が出て来るもので、この句はこれが三回目だった。
一回目は、
「素堂の母の喜寿の祝いを七十七にちなんで七夕にやった。
7人に秋の七草を振り分けて、回って来たのが萩だった。
七株の萩もやがて株を分けて、いつしか千本、八千本となれば、その花はさながら天の川のようだ。
七株の萩の千本や星の秋 芭蕉」
で、賀歌としての普通の解釈をして、二回目は、
「素堂の母の喜寿のお祝いを七十七にちなんで七夕にやった。
萩の露はさながら地上の星のようで、七株でも満天の星のようになり、拾遺集の、
空の海に雲の波立ち月の舟
星の林に漕ぎかくる見ゆ
柿本人丸
の歌の心だ。
七株の萩の千本や星の秋 芭蕉」
と別解をしてみたが、三回目は思いつかなくて、山梨のサイトを頼った。
「山梨県歴史文学館山口素堂資料室」からの引用になるが、
「いつはむかし、素翁が母七十七歳の秋七月七日に、万葉の秋のなゝ草の小集あり、七もとの草花を誰かれと風狂せし俳の七叟なり。その敬莚は
七かぶの萩の千もとや星の縁 芭蕉
けふ星の賀にあふ花や女郎花 杉風
星の夜よ花び紐とく藤ばかま 其角
布に煮てあまりぞさかふ葛の花 沾徳
松江の鱸薄の露の星を釣 嵐蘭
動きなき岩撫子やほしの床 曾良
蕣は朝なくの御製哉 素堂
《註》…元禄五年の作
またいつの秋か、其人さへ半ばなくなりにけりとて、星やあふ秋の七草四人なし、と口ずさまれしが、今はためしも其なき数に入ぬ。つらくそのことをおもふに、含飯両頬 ひもいと情厚くもの教へられしに付て其徳百にして一つをも報せず、ひとひ古き皮籠の内をみるに、かひやり捨たる艸紙の一まるけあり。半は往年成し序の草案也。二たび舅氏にあふ心地して、嬉しさも猶哀先だちぬ。さることのさし置がたく、かの手向のはしの一つにもやと、いやしきを忘れ犬馬の労を費し、其まちくの名を拾ひこゝに呈。」
とあった。この素堂の句の「朝なくの」は字足らずで変だが、ひょっとして「朝な/\(朝な朝な)」の反復記号の入力ミスだろうか。
あと気になるのは、
朝がほは後水尾様の御製かな 素堂
の句との関係だ。
このツイットは推測で書いているものが多く、実際同時代の資料がなくて謎の句は推測で物を言うしかないのも確かだ。
「よく覚えてないが、木曾義仲の塚を最初に見た時だったかな。
三尺の山も嵐の木の葉哉 芭蕉」
というのも、三尺の山で思い浮かぶのが墳墓しかなかったし、季節が冬だから元禄二年に膳所を訪れた時の木曽塚の最初の印象かもしれない、と思った。
ウィキペディアに、
「江戸時代になり再び荒廃していたところ、貞享年間(1684年 - 1688年)に浄土宗の僧・松寿により、皆に呼び掛けて義仲の塚の上に新たに宝篋印塔の義仲の墓を建立し、小庵も建立して義仲庵と名付けて再建が行われ、園城寺の子院・光浄院に属するようになった。元禄5年(1692年)には寺名を義仲寺に改めている。」
とあり、元禄二年には既に塚の上に宝篋印塔が立ち、それを守るための庵が建てられていて、芭蕉は幻住庵に入る前にそこに滞在している。
幻住庵を出た所で木曽塚に無名庵が出来上がっている所から、曲水が芭蕉を住まわせるために仮の庵を本格的な庵に立て直して提供したのではないかと考えられる。
そこから、
「元禄2年の暮は木曾義仲殿の墓を守るために庵に住まわせて貰った。
菅沼外記はいろいろ便宜を図ってくれるし、大津の智月という尼さんもいろんな物を持ってきてくれる。
貰った琵琶湖名産の氷魚を醤油で煮ておいたので、こんな霰の降る日はどうぞ召し上がれ。
あられせば網代の氷魚を煮て出さん 芭蕉」
「元禄2年の暮は膳所の木曾義仲の墓を守る庵で過ごした。
東海道がすぐ近くで、膳所と松本と大津宿はほとんどくっついていて人口も多い。
東西の東海道はもとより、琵琶湖から運ばれて来る北国のものや瀬田川を上って来るものなど、市場は見てて飽きない。
用はなくても黒い僧衣のまま出かけてゆく。
何に此師走の市にゆくからす 芭蕉」
という展開にして、
「菅沼外記から木曾義仲さんのお墓の隣に新しい庵を建設する話が持ち上がった。
それまで外記の伯父の修理定知が建てたという幻住庵にしばらく滞在することになった。
石山寺の裏の国分山にある琵琶湖が見渡せる眺望の良い所で、これから夏の間、椎の木立が日を遮って涼しい風を運んでくれる。
先たのむ椎の木も有夏木立 芭蕉」
で幻住庵入りとした。
ただ、
「貞享2年の春に大津に来た時は、木曾義仲の塚は荒れ果てていた。平家打倒の立役者なのに。
貞享5年に再訪したら、そこに新しい墓が建てられ、管理人の庵があった。嬉しかった。
みちのくの旅を終えて来てみると、膳所藩家老の菅沼外記にここに住んじゃえよと言われた。まさか墓の隣に住むことになるとは
木曾の情雪や生ぬく春の草 芭蕉」
は失敗した。最初の「三尺の山も嵐の木の葉哉」が春に詠んだ冬の句にしないと辻褄が合わなくなる。小説だとプロットのミスということになる。
もっとも元禄二年の暮に膳所に行く前に、奥の細道の旅の途中で、
「越前から敦賀へ向かう途中の北陸道今庄宿の辺りに燧山があった。木曾義仲の燧ヶ城のあった所だった。
義仲の寝覚の山か月かなし 芭蕉」
と木曾義仲のことに気を止めているから、その前から木曾義仲のことを気に掛けていたのは確かだろう。落葉の季節ではなくても、荒れ果てた木曾義仲の墓を見たことがあった可能性はある。
その芭蕉の木曾義仲推しの理由だが、
「平家打倒の功労者は第一に木曾義仲、その次に九郎義経。これは動かしがたい。
頼朝は権謀術作でそれを横取りしただけ。
義仲の寝覚の山か月かなし 芭蕉」
というふうに推測してみた。上に立つ人間よりも現場で汗水のみならず血を流して頑張った人間をたたえるのは、庶民感情としては普通のことだし、合戦は鎌倉で起きているのではない、現場で起きているんだと言いたいところだ。
「毎年毎年雪が降って雪に埋もれていても、その下で草は生え続けている。
それが木曽で育った木曾義仲の心だ。
木曾の情雪や生ぬく春の草 芭蕉」
「雪の中でじっと耐えながら春に花咲かせる木曾義仲の木曾魂。
古今集にも、
雪降れば冬籠りせる草も木も
春に知られぬ花ぞ咲きける
紀貫之
の歌がある。
木曾の情雪や生ぬく春の草 芭蕉」
の句でも木曾義仲へ寄せる思いは確かなものだ。
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