2022年12月3日土曜日

 中国の方は気になるけど情報が入って来ない。竹のカーテンというよりも、マス護美の方が勝手にカーテンを閉めてるんじゃないかと疑いたくなるね。
 アップルも中国依存で中国政府の言いなりか。ツイッターを締め出そうとか、iPadはもうこれきりにしようかな。今はガラケーだけどスマホにするときもandroidの方にしよう。

 それでは「隨縁紀行」の続き。

  「熱田奉幣
 芭蕉翁甲子の記行には『社大イニ破れ、築地はたふれ草むらにかくる。かしこに縄をはりて小社の跡をしるし、爰に石をすへくその神と名乗る。よもき、しのふ、心のままに生たるそ、目出たきよりも心とまりて』とかかれたり與廃時あり甲戌の今は造営あらたに俣めでたし
 更々と禰宜の鼾や杉の月    晋子
 鳥のねや熱田にいさむ今朝の月 キ翁
 みやもりか前帯をかし後夜の月 岩翁

   津島牛頭天王
 縁の稲弥五郎どのを守りかな  キ翁

   十六日くはなにて
 此魚はけふの御斎かいせのうみ 横几
 大魚のこしてながるる穂蘆かな 尺草
 身にしむや蛤うりの朝の酒   キ翁」

 浜松から熱田神宮のある宮宿までは二十五里。十四日十五日の二日間で熱田まで熱田まで行ったのならかなりの強行軍になる。ただ、浜松藩の家老の別邸が三方ヶ原にあったのなら、御油までは姫街道を通ったと思われるから、それよりは若干距離が短くなるかもしれない。二十三里くらいか。
 「禰宜の鼾」「今朝の月」「後屋の月」とあるから参拝したのは朝未明で、ここから津島牛頭天王のある今の愛知県津島市の方を経由して桑名に行ったなら、熱田から佐屋街道を使い、佐屋宿から三里の渡しで桑名に出たのだろう。佐屋宿は名鉄尾西線佐屋駅の辺りになる。
 熱田神宮は芭蕉の『野ざらし紀行』に、

 「社頭(しゃとう)大イニ破れ、築地(ついぢ)はたふれて草村にかくる。かしこに縄をはりて小社の跡をしるし、爰に石をすえてその神と名のる。よもぎ、しのぶ、こころのままに生ひたるぞ、中なかにめでたきよりも心とどまりける。
 しのぶさへ枯れて餅かふやどり哉」

とある。其角の引用は、

 「社大イニ破れ、築地はたふれ草むらにかくる。かしこに縄をはりて小社の跡をしるし、爰に石をすへくその神と名乗る。よもき、しのふ、心のままに生たるそ、目出たきよりも心とまりて」

だから、概ね合っている。「石をすへく」は其角全集の方の誤植だろうか。
 『野ざらし紀行』は『甲子吟行画巻』という形で貞享の頃に既に成立していたので、其角も当然ながら読んだことだろう。ただ、一点もので刊本ではないので、閲覧できた人は江戸の門人か江戸に来る機会のあった門人に限られただろう。文章の方は書き写して他の地域に伝わっていたかもしれない。
 このあとすぐに熱田神宮は改修され、三年後の貞享四年冬、ふたたび『笈の小文』の旅で熱田を訪れた芭蕉は、

   そのとしあつ田の御造營ありしを、
 とぎ直す鏡も清し雪の花    芭蕉

の句を詠むことになるが、『笈の小文』は芭蕉の遺稿で、この先芭蕉の死後に知ることとなるだろう。そのあと元禄八年刊支考編の『笈日記』で広く知られることになる。
 『熱田神宮』(篠田康雄著、一九六八、學生社)によると、寛永十五年(一六三八年)から幕府へ造営の陳情がなされていたのだが、貞享二年(一六八五年)正月十六日にようやく「幕府は、熱田神宮の現状を検分するために、奉行二人と大工一人の派遣を決定したことを告げ」、「検分を命ぜられた、梶四郎兵衛、星合七兵衛の両奉行は、同年九月六日に熱田へ到着、十三日まで八日間にわたる調査を終えて江戸に帰」ったという。
 すぐに「大宮司以下の陳情団は、九月十七日熱田を出発して江戸へ向かう。」そしてそのまま江戸で年を越し、翌年正月十三日ついに着工が決定する。そして「早くも七月九日には、すべての建物が竣工。七月二十一日には、新本殿への晴れの遷宮が行われた。」という。
 まるで芭蕉の声が届いたかのような急展開だった。

 更々と禰宜の鼾や杉の月    晋子

 其角も元禄七年にこの新しくなった熱田神宮を目にすることになる。ただ訪れたのは朝未明だったようだ。浜松から二十三里を二日で来た関係で、宮宿への到着も暗くなってからだったのだろう。
 まだ暗い境内を長月の十五夜の月が照らし、禰宜もまだ鼾をかいているのだろうか、杉がさらさらと音を立てる。

 鳥のねや熱田にいさむ今朝の月 キ翁

 「鶏の音や」であろう。ようやく空も白み、鶏の声が勇ましく響き渡る。

 みやもりか前帯をかし後夜の月 岩翁

 後夜は夜半から明け方にかけてをいう。熱田に参拝したのはこの時刻だった。
 夜中の神社にも番人がいて、神職に準じて帯を前で結んでいた
 それから佐屋街道を陸路六里、津島牛頭天王社へ行く。この神社は明治の廃仏毀釈で津島神社になった。

   津島牛頭天王
 縁の稲弥五郎どのを守りかな  キ翁

 境内に弥五郎殿社がある。武内宿祢の子孫の堀田弥五郎正泰が夢のお告げで建てたと言われている。堀田正泰はコトバンクの「デジタル版 日本人名大辞典+Plus「堀田正泰」の解説」に、

 「?-1348 鎌倉-南北朝時代の武将。
  紀行高(きの-ゆきたか)の子。尾張(おわり)(愛知県)の人。父の遺志をついで南朝の後醍醐(ごだいご)天皇につかえる。貞和(じょうわ)4=正平(しょうへい)3年楠木正行(くすのき-まさつら)にしたがって河内(かわち)(大阪府)四条畷(しじょうなわて)で高師直(こうの-もろなお)軍とたたかい,同年1月5日正行とともに戦死した。通称は弥五郎。」

とある。以後津島牛頭天王社は堀田氏によって守られてきた。折から稲が奉納されていたのだろう。
 熱田から六里なら、昼前には津島に着いていたのだろう。佐屋宿から三里の渡しでその日のうちに桑名に到着する。

   十六日くはなにて
 此魚はけふの御斎かいせのうみ 横几

 御斎はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「御斎」の解説」に、

 「〘名〙 (「お」は接頭語。「とき(斎)」は「時」で僧家での正午以前の食事の意) 寺または仏事法会(ほうえ)のときの食事。
  ※御湯殿上日記‐文明一一年(1479)九月四日「ひかんの中日にて、御とき御さたあり」
  ※人情本・春色雪の梅(1838‐42頃か)四「ほんの百ケ日だといふ真似方(まねかた)ばかりで〈略〉何卒(どうぞ)お斎(トキ)におつきなすって下さいまし」

とある。この場合は初七日の精進落し御斎か。

 大魚のこしてながるる穂蘆かな 尺草

 地引網であろう。魚と一緒に蘆の穂も網にかかるが、蘆の穂は網の隙間から流れて行き大きな魚だけが残る。

 身にしむや蛤うりの朝の酒   キ翁

 桑間の焼き蛤は名物で、元禄五年九月の「苅かぶや」の巻二十一句目にも、

   池の小隅に芹の水音
 焼付る蛤茶屋の朝の月      史邦

の句があり、朝早くから営業していたようだ。その苦労を思いながら、十七日は朝から酒を飲んで伊勢へと向かう。

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