それでは「隨縁紀行」の続き。
「春日四所の宮人達夜毎にとのゐして
戌の刻を限りとし侍る也
今幾日秋の夜詰を春日山 晋子
日はやまに数千の灯籠秋の色 岩翁
御供所に猿も菓を運びけり キ翁
こころして陰ふむみちや御縄棟 横几
伊勢大神宮へ向ふところと申すを
拝み石道やおのれとしの薄 キ翁
木の根巻竹や小鹿のつののよけ 松翁
二月堂に七日断食の行者あり。
屏風引廻して無人聲
日の目見ぬ紙帳もてらす櫨かな 晋子
増賀聖の古跡にて
づぶぬれに捨ぬ身をさへ時雨哉 横几」
これも奈良滞在中の句になり、時間が前後する。
春日四所の宮人達夜毎にとのゐして
戌の刻を限りとし侍る也
今幾日秋の夜詰を春日山 晋子
春日四所はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「四所明神」の解説」に、
「春日神社の四柱の祭神。武甕槌命(たけみかづちのみこと)・経津主命(ふつぬしのみこと)・天児屋根命(あまのこやねのみこと)・比売命(ひめのみこと)の総称。
※光悦本謡曲・采女(1435頃)「四所明神の宝前に、耿々たる灯も」
とある。
四所に宿直している神社の人は是で何日目なのだろうか。
日はやまに数千の灯籠秋の色 岩翁
前のコトバンクの用例にもあるが、謡曲『采女』に、
「更闌け夜静かにして、四所明神の宝前に、耿耿たる燈火も、世を背けたる影かとて、共に憐む深夜の月、おぼろおぼろと杉の木の間を洩りくれば、神の御心にも若くものなくや思すらん。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (p.1111). Yamatouta e books. Kindle 版. )
とある。四所明神に灯籠は縁がある。
とはいえ、この場合は夕日を浴びる山の紅葉が幾千の灯籠に見えるという意味になる。
御供所に猿も菓を運びけり キ翁
御供所(ごくうしょ)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「御供所」の解説」に、
「〘名〙 神社などに付属して、供物を調える所。神厨。小供御所屋(こくごしょや)。小御供所。呉呉所(ごごしょ)。ごくしょ。
※吾妻鏡‐文治二年(1186)六月一五日「安能寺務後始置仏神事〈略〉建二立六間四面御供所屋一宇一」
とある。
「菓」は字余りになるが「くだもの」か。元はナッツ類のことだが、後に今の意味の果物になった。
「けり」と強く断定しているから、これは御供所で果物を持った猿が目撃されたのだろう。実際は持ち去ろうとしたのだろうけど。
こころして陰ふむみちや御縄棟 横几
御縄棟は十月一日の縄棟祭(なわむねさい)で、春日大社のホームページに、
「縄棟祭は、お旅所の行宮(あんぐう)(仮御殿)の起工式で代々「春日縄棟座(かすがなわむねざ)」として大柳生の片岡家が奉仕する。早朝より雌松52本と縄52尋(ひろ)を用いて屋形を組みあげ、その前へお供えを献じて御幣を奉る事などがある。
昔は大円鏡や小円鏡という鏡餅が百余面も供えられ、祭事の後で振舞われたという。」
とある。「こころして陰ふむみち」はこの大量の鏡餅があったからか。
伊勢大神宮へ向ふところと申すを
拝み石道やおのれとしの薄 キ翁
「拝み石」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「拝石」の解説」に、
「① 歴史上著名な人物が、そこから遙拝したという伝承をもつ石。また、その伝説。
② 氏神の境内などにあり、大昔、その石の上に神を勧請(かんじょう)したという伝承をもつ石。
③ 造園工法で、庭園の中の浄地に置く平石。」
とある。
この場合は②で、春日大社奥の院の方に伊勢神宮遥拝所があり、そこには大きな石が二つと小さな石がいくつか置かれている。
ただ、周囲に篠薄が茂っていたか、ここへ来る道は己で切り開かなくてはならない。
木の根巻竹や小鹿のつののよけ 松翁
春日大社の辺りは鹿が多いので、木の下の方には竹が巻き付けてあって鹿が角で突いて木が痛むのを防いでいる。
二月堂に七日断食の行者あり。
屏風引廻して無人聲
日の目見ぬ紙帳もてらす櫨かな 晋子
二月堂では春のお水取りのための行者が籠って七日断食する。ただ、今は九月なので屏風で入口を塞いであって、誰もいない。
前に「時にふれて興多し」という前書きの句で掲載された句と重複している。この紙帳が二月堂のものであったことがわかる。
増賀聖の古跡にて
づぶぬれに捨ぬ身をさへ時雨哉 横几
増賀上人の墓は多武峯の談山神社にある。
増賀上人というと『撰集抄』に伊勢神宮で夢のお告げがあって着てた物を皆乞食にやって裸で帰ったことで知られていて、芭蕉も貞享五年に、
裸にはまだ衣更着の嵐哉 芭蕉
の句を詠んでいる。その増賀上人がその後暮したのが多武峰だった。昔は神仏習合で、ウィキペディアには、
「天武天皇9年(680年)に講堂(現・神廟拝殿)が創建され、十三重塔を神廟として妙楽寺と号した。大宝元年(701年)、十三重塔の東に鎌足の木像を安置する祠堂(現・本殿)が建立され、聖霊院と号した。談山の名の由来は、中臣鎌足と中大兄皇子が、大化元年(645年)5月に大化の改新の談合をこの多武峰にて行い、後に「談い山(かたらいやま)」「談所ヶ森」と呼んだことによるとされる。後に本尊として講堂に阿弥陀三尊像(現・安倍文殊院釈迦三尊像)が安置された。」
とある。
別に世を捨てて裸になるつもりはないが、時雨でずぶ濡れになって服を脱ぐことになった。
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