パソコンは起動するがディスプレイに何も映らない状態になり、とりあえず新しいディスプレイを注文した。今日はタブレットで書いている。
リカードの「経済学及び課税の諸原理」が青空文庫にあった。まだ最初の方しか読んでない。
マルクスの失敗は結局古典経済学の労働価値説が足枷になったのかもしれない。
労働価値説は国民の大半が食うのがやっとという状況下では、経済の分析の無駄を省くのに都合が良かったのだろう。
労働価値説の例外となる希少価値や芸術などの精神的価値はごく一握りの貴族やブルジョワだけのもので、国民の大半にとって縁のない物である以上、それを除外して議論しても誤差の範囲内で済んだ。
資本主義の拡大再生産がやがて庶民全体の経済レベルを引き上げるという予想がつかなかったのかもしれない。
マルクスもその予想がついてなかったとしたら、拡大再生産の持つ可能性に気づかず、それを搾取と見做し、剰余価値をすべて労働者に配分して単純再生産への回帰するのが正しいと信じた可能性もある。
労働価値説では、生産性の向上は意味をなさない。なぜならいくら生産性が上がったとしても、その生産の総量は労働者のギリギリの生活に必要な物資の価値と等価にしかならないからだ。リカードが短期的には利潤を上げても、長期的には商品価格の暴落を生むと考えていたようだ。
労働者の欲望は肉体的な欲望であり、空腹を満たして子孫を残すだけの人生であり、それに必要な物量だけが全ての経済的価値を決定するなら、労働者はそれ以上の物を永遠に得ることはないだろう。
そこでは労働者がいつかはブルジョワのような生活をという望みは断たれる。労働者のみならずブルジョワをその次元の生活に没落させることが社会主義の正義になる。
マルクスの唯物論は文字通り全ての価値は肉体的欲望から生まれるもので、精神的価値の否定となるなら、なるほど最近の環境テロが芸術を標的にするのもそういうことなのか。
それは古典経済学の本来意図したものではなかった。希少価値や精神的価値の排除は便宜的なものだったはずだ。だがそれをマルクスが原理主義的に解釈し、生存と繁殖以外の価値を全て否定してしまったとしたら、これほど絶望的な哲学はない。
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