狩猟採集民族の完全平等社会が原始共産制と呼ぶべきものであるなら、その社会の原理は極めてシンプルで、誰かがより多く持つことで生じる嫉妬を極力回避する状態と言って良い。
現代社会でもそうだが、嫉妬はしばしば犯罪、それも殺人などを引き起こす。警察も自警団もない原始的な社会では殺人を誰かが寝込みをゴツンとやることを防ぐのは難しい。だから嫉妬を買わないように自制するというのが天寿を全うするための道になる。
それでも嫉妬による殺人事件はしばしば起こる。その最大の原因が恋であるのは容易に想像がつくだろう。
モーガンが思い描いてエンゲルスも支持した原始乱婚制がなぜ成立しないかというと、乱婚制は持てる男の一人勝ちになってしまうからだ。当然ほかの男は嫉妬する。殺人事件が後を絶たない。だから平等に分配する必要があった。それゆえ一夫一婦制に落ち着くことになる。
それでもなかなか意中の異性と結婚することは難しい。ある程度の不倫は容認されたとしても、それはそれでやはり持てる男と持てない男の差ができてしまう。嫉妬の炎を消すことは火事を消すより難しい。
こうして一見平和のように見える共同体、誰もが平等で誰もが幸せなのかというとそうではなかった。そこはいつでも嫉妬の炎がめらめら燃えていて、それが時折爆発しては殺人を生む。殺人は遺族の恨みを残し、復讐心を生む。こうして村は解けることのない呪いがかかったように常に嫉妬と復讐の炎に包まれている。これが原始共産制だ。
こうした中で狩った獲物を自慢したり、弓矢の腕を誇ったり、手先の器用さを自慢しようものなら、古い言葉だが総スカンを喰らう。その能力が原因で女にもてたりしようもんなら、たちどころに嫉妬の標的となる。事を荒立てないように、みんな気を遣っている。
謙譲の美徳というのはこういう社会では当たり前のことだった。我が国の神道の基本もまた天地自然の不測の力を恐れ、身を慎むことに尽きる。嫉妬もまた自然の力の一種と言って良いだろう。
さて、こう考えてみると、交換価値の源泉は感情的な「羨望」によるもので、羨望が強ければ強いほど、それを与えられた時にその人を縛る力が強くなる。
例えばヤクザにロレックスの時計を貰ったということは、同時にその時計の代償に組員として働けということで、その際の労働時間の取り決めも何もない。
おそらく、一度貰ったが最後で、その後は様々な脅迫によって一生組に縛り付けられ、それを断ち切るには指一本を代償として支払うことになる。
贈与は感情との交換だから、それは人格的なもので、その返済には同等の羨望を満たしてやるか、そうでなければ人格を削る必要がある。
余談だが、桃太郎の吉備団子も労働契約ではなく、ヤクザのロレックスと同様のものと考えた方が良い。「吉備団子一個でやってられるか!」といった言ったパロディは労働契約の考え方によるもので、本来は唱歌に「一つ私に下さいな」とあるように、禽獣が人間の生産物にと対して羨望を持つ所から始まる主従関係の契りだった。
最初の原始的な交換価値が羨望によるものなら、当初からそれは希少価値と密接な関係があるし、他人の女房に羨望を抱くなら、その時点で交換価値は性的である。
例えば村を訪れたゆきずりの旅人に女房を抱かせてやるといった贈与も、いろいろな所で見られる。これは最も原始的な「性の商品化」と言って良いだろう。
古典経済学が二次的なものと見做した希少価値や精神的価値は、むしろ経済の原初から存在していたと言って良いのではないかと思う。
羨望が交換価値の基礎にあると考えるなら、今の巨大化した消費性向も実は羨望の体系であることが理解できる。レアアイテムのみならず、人々は常に羨望の的を生み出しては、自らも同等な羨望を集めようと凌ぎを削る。それが芸能、スポーツ、YouTubeであったりする。
レビ・ストロースは社会を「冷たい社会」と「熱い社会」に分けたが、冷たい社会は羨望を抑制するために生産を最低限に留める社会であり、熱い社会は羨望を満たすために生産性を高めて行く社会と言って良いだろう。
ならば、剰余価値を搾取と見做して単純再生産へと引き戻す革命は、熱い社会を冷たい社会に変えるという意味を持つことになる。労働者が生活に最低限必要なものを価値の源泉に置くならそういうことになる。
つまり、そこにあるのは科学的社会主義ではなく原始共産制だ。これがマルクスの意図ではなかったのは明白だ。
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