2022年12月10日土曜日

 ドイツでクーデター未遂事件があったが、ドイツでもロシアと同様の中世回帰の闇があるのかもしれない。おそらくロシアの情報工作も関連しているのだろう。
 西洋哲学は死んだ。そこから社会主義も人権思想も拠って立つ哲学的根拠を失った。かといって脳科学などによって合理的に再編される動きもない。その隙に入り込むのは中世神秘主義への回帰だ。
 一方で社会主義や人権思想が原理主義化して、環境テロやビーガンテロなどもその方面の一部といえよう。その対極におそらく極端なキリスト教原理主義に基づいた反ユダヤ主義や反同性愛などの動きが生じているのだろう。
 西洋哲学の死は哲学が厳密な学として存在することを不可能にし、任意な極端な形而上学が乱立する危険を含んでいた。これは西洋社会そのものの崩壊の兆しかもしれない。
 ロシアのドゥーギンの思想、アメリカのQアノン、そして今回のドイツのクーデター未遂はこうした根っこで繋がっている可能性がある。
 日本の右翼は日本の伝統的社会に拠って立つ場所がある。それは江戸時代の朱子学によって確立された四端七情の人情の世界がある。西洋には感情を論じる形而上学を根本的に描いている。そのため哲学の死は中世帰りの神秘主義に陥りかねない。
 こういう事件があるとまたパヨチンどもが勝手に壺ウヨ=Jアノンの図式でもって、統一境涯に汚染された自民公明政権がクーデターを画策しているなんて妄想を抱きそうだが、それは絶対ないので念のため。
 第一長期安定政権を維持しているのだから、クーデターを起こされる側であって起こす必然性はない。日本は形而上学が死んでも義理人情の政治が残るので、中世帰りをする必然性がまるでない。

 それでは「隨縁紀行」の続き。

  「多武峰
 下り坂もあきを峠の木の葉かな  キ翁
 長月や楔とめたる水車      尺草
 案内は女なりけり三輪の月    岩翁
 むらしぐれ三輪の近道尋けり   晋子
 下馬札をみわの印や杉の月    松翁
 秋の日の残るも深しみわの栄   尺草
 神ふかき鳥居のそでや苔のいろ  キ翁
 かたはかり月や井筒の松丸太   横几
 僧ワキのしづかに向ふすすき哉  晋子」

 この一連の多武峰や三輪の句は季語は秋に戻っているので、十五日から奈良の中心地を出る二十八日までの間の句と思われる。
 このあとに「廿九日よしのの山ふみす」とあるから二十八日に奈良を出てその日に多武峰から細峠を経て吉野へ向かったか。そうなると、多武峰の句やその少し手前の三輪の句は二十八日の句になる。
 そうなると当麻寺の二句は二十八日に奈良を出る前日の二十七日か。時雨は秋に詠むこともある。

   多武峰
 下り坂もあきを峠の木の葉かな  キ翁

 多武峰は尾根の道で上ったり下ったりを繰り返す。山の上の方は既に落葉している。

 長月や楔とめたる水車      尺草

 稲の収穫が終わると田んぼに水を引き込む必要がないので、水車は楔を打って動かなくする。大和川の辺りの水車か。

 案内は女なりけり三輪の月    岩翁

 三輪山は大和川の北側にある。南側が多武峰になる。多武峰に登る前に三輪の大神神社へ行ったのだろう。女と言っても若いかどうかは分らない。
 「三輪の月」が二十八日の朝の月だとすると、明け方の末の三日月ということになる。元禄七年九月は小の月で二十九日までしかなかった。

 むらしぐれ三輪の近道尋けり   晋子

 三輪山で時雨にあって、近道がないかどうか尋ねた。これは前日の二十七日のことで、三輪で一泊したか。

 下馬札をみわの印や杉の月    松翁

 下馬札はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「下馬札」の解説」に、

 「〘名〙 「下馬」「下乗」などと記して、それより内へは馬で乗り入れることを禁止する旨を示した立札。下馬牌(げばはい)。下馬板。
  ※三礼口訣(1699)書礼口訣「下馬札(げバフタ)の事。もろこしにも廟前に下馬碑を立る事有レ之」

とある。

 我が庵は三輪の山もとこひしくば
     とぶらひきませ杉たてるかど
             よみ人しらず(古今集)

の歌があり、杉立てる角を訪ねてきたが、実際に泊まった宿屋は杉の木がなく、下馬札を見て杉立てる角の代りとする。

 秋の日の残るも深しみわの栄   尺草

 秋の日はまだ二十八日、二十九日と二日残っている。

 神ふかき鳥居のそでや苔のいろ  キ翁

 大神神社に参拝した時の句であろう。

 かたばかり月や井筒の松丸太   横几

 大神神社よりかなり北になるが、在原寺跡に筒井筒の井戸があるという。そうなると、これは三輪に到着する前のことか。「かたばかり」が肩の丈と片ばかりに掛けているとすれば、下弦の月の頃であろう。

 僧ワキのしづかに向ふすすき哉  晋子

 謡曲「井筒」のワキは「これハ諸國一見の僧にて候」と言って登場する。在原寺は天理市のホームページによると、

 「天文23年(1554)三条西公条の『吉野詣記』には在原寺の記事が見え、延宝9年(1681)刊の『和州旧跡幽考』にも記され、江戸時代は寺領わずかに五石であったが、明治維新ごろまで本堂、庫裡、楼門などがあり、昔は、在原千軒と称せられたほど人家が建ち並んでいたという。」

とある。寺はかなり荒れていて、薄が茂ってたのだろう。

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