2022年12月27日火曜日

 晴れた良い天気が続いている。月も三日月から少しづつ太くなってゆく。

 さて労働価値説だが、着想としては石高のような発想で、穀物はどこでも作っていてどこでも消費される商品であり、その生産量や価格などの統計も取りやすいことと、それに要する労働量がどこでも大差ないということから、一人の農夫が作る穀物の価値を交換価値の尺度にできないか、というものだったということが想像できる。
 アダム・スミスの『国富論』第六章で、その労働価値説が展開される。

 「元本と蓄積と土地の専有に先立つ初期未開の状態にとどまる社会では、さまざまなものを獲得するために費やされた労働量の比率が、それを交換する際のルールになりうる唯一の事情であった、と思われる。」

 これは推測であり、検証はされていない。
 二十世紀に入ってアフリカなどの狩猟民族社会に文化人類学者が入り込んで調査をするようになると、こうした社会の実態は近代人の想像とはかなり異なるものだったことが明らかになった。
 近代人が思い描いたようなロビンソン・クルーソーのような自給自足の生活はそこにはなかった。
 あったのは徹底した贈与によって相互依存する社会だった。
 たとえばコイサン人(昔はブッシュマンと言った)は単独狩猟で生計を立てているが、借りに必要なさまざまなものを狩人が自分で作ることを禁じ、すべて共同代の他のメンバーに作ってもらわなくてはならず、仕留めた獲物もすべて分配しなくてはならない。
 彼らは徹底的な出る杭は打たれる社会で、狩の腕前を自慢したりするのもNG。狩が上手くて人よりたくさん獲物を獲れそうになると、サボって調整しなくてはならない。
 狩りの道具でも上手い下手は仕方がないものとしても、その道具は順繰りに全員が使うようになっていて、とにかく条件に差ができないように苦心している。
 こうした徹底した平等主義は、集団狩猟をやるムブティ族(旧名ピグミー)でも共通していて、それぞれの労働に応じた交換ではなく、あくまで全員が労働して全員で消費する社会だった。
 根底にあるのは贈与を受けると負債が生じ、それを返さなくてはならないというルールで、既に完全平等主義の均衡の破れた社会においてはモースが『贈与論』で論じたような、時として競覇型の贈与(ポトラッチ)が行われていた。
 単純に言えばより多く与えたものがより多く恩を着せることができるということで、最近はあまり見ないが、昭和の頃の日本でも酒代を俺がおごる、いや俺がといった小さなポトラッチが行われていた。
 完全平等社会はこうした贈与による恩が即時に返済される状態で、これによって平等が維持されていた。これに対して返済が滞って、恩を受けたままの状態が長引けば、その社会は不平等なものになり、主従関係が生じ、階層が生じてゆくことになる。
 昭和のヤクザの世界でも、堅気の物を引き入れる時には必ず高価な贈与を行う。これによって恩にしばれれてずるずると深みにはまってゆくことになる。これを防ぐには、ヤクザから贈り物を受けた時は必ず同額の品をお返しするというのが基本だった。
 日本の社会ではこうした贈与による恩のやり取りはかなり残っている。御祝儀や香典の半返しの習慣なども、基本的には贈与による恩着せによる支配を防ぐというのが基本にあったのだろう。
 西洋では早くからそれが廃れてしまったのであろう。
 原始的な経済は交換ではなく、まず贈与から始まる。贈与を受けた時、それと同等の価値の物を返済できないと、やがては生殺与奪権を相手に与えることになる。この返済の際の同等性が交換価値の起源と言って良いと思う。
 一人の狩人が弓矢や衣類や狩りに必要なさまざまなものを村の多くの人からそれぞれ受け取り、仕留めた獲物をお世話になった人全員に分配するとき、受けた恩と返済する獲物は等価と見なすことができる。ただ、それは一対一の取引ではなく、個と全体との取引になる。

 「たとえば、狩猟に従事する人々の間で、ビーヴァーを仕留めるのに要する労働が、鹿を仕留める労働の二倍手間がかかるのが普通だとすれば、当然の帰結として、ビーヴァー一匹は鹿二頭と交換される、つまり、それと等価値でなければなるまい。」

といった取引は、ある程度商業の発達した段階で生じるもので、商業の未発達な時代はこのような等価交換は行われなかった。
 ビーヴァーを仕留めようが鹿一頭仕留めようが、それと等価になるのは、その狩猟に要した村全体の労働に他ならない。
 誰が何を仕留めようが、それらはすべて村全体の労働と等しい。誰かがビーヴァーを持って帰り、他の人が鹿を持って帰って来たとしても、それは等価として扱われなくてはならない。なぜならビーヴァーの特別な価値を認めてしまうと、そのハンターが特別な存在になってしまい、完全平等の原則が崩壊するからだ。
 こうした不平等の萌芽を防ぐには、ビーヴァーが村にとってもし特に価値のあるものだとしたら、一度獲ったらしばらくは価値の低いものを獲るようにして調整するか、あるいは狩りを休むかということになるだろう。
 こうした平等社会では、能力のあるものもないものも絶対的に等価として扱わなくてはならない。腕のいい狩人は狩りの労働時間を減らすことで調整され、腕の良い弓の造り手や腕の良い矢の造り手も同様、村への貢献度が等価になるように労働時間を減らさなくてはならない。
 こうして狩猟社会は一日二時間程度の労働という所に落ち着いていたようだ。常に生産性の低い人に合わせて、労働時間を減らして行くわけだが、それでも生存に問題はなかった。
 したがって、

 「通例二日または二時間の労働で生産されるものが、通例一日または一時間の労働で生産されるものの二倍価値があるということ、これは自然に生じることである。」

とはならない。全員が等価の物を生産するために、各自それぞれ労働時間の方を調整するのが未開式のやり方だ。
 ならばその場合の等価とは何だろうか。それは羨望や嫉妬のない状態と定義した方が良い。

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