2018年3月16日金曜日

 今日は雨が降り、気温も下がった。三寒四温といったところだろう。
 では『詩経』大序の続き。

 雅者、正也、言王政之所由廃興也。政有大小、故有小雅焉、有大雅焉。頌者、美盛徳之形容、以其成功告于神明者也。是謂四始、詩之至也。

 (雅は正である。王政の廃れたり興ったりする所以を言う。政治には大小があり、そのため小雅があり大雅がある。頌は盛んな徳の姿を称え、その功績を神明に告げるものである。これを四つの始めといい、詩の至りである。)

 「雅」のもとの意味は藤堂明保編の『学研漢和大字典』によれば、「からみあってかどがとれる」ことだという。これに対し「正」は足を真っ直ぐに伸ばすことだという。
 ともすると権力争いで殺伐としがちな貴族社会だが、その一方でどこの国でもそれを和らげるための様々な優雅で平和的な習慣を作り上げている。どんな不愉快な時でも笑顔を絶やさなかったり、心の中では怒りに震えていても優雅な仕草で物毎に対処する。角が取れるというよりも角を隠すための処世術ともいえる。ひとたびそれが破れると、それこそ決闘か戦争になる。
 感情を露骨に表現するのではなく、あくまで婉曲的にそれとなく諭す程度に留めるような控えめな表現は、風雅の情に始まり礼に止むを体現するものともいえよう。
 庶民もまた怒りをあらわにするのではなく、婉曲的で控えめな表現でそれを伝えるのは、貴族のこうした雅な表現方法に倣ったものと言えよう。俳諧もまた和歌連歌の雅な表現の仕方の中に俗語を取り入れ、庶民の身近なあるあるを表現してゆく。
 「正」はまた「政」にも通じる。そしてその「政」には大事もあば小事もある。そこから『詩経』では儀式の格式に応じて大雅と小雅の二つに分類されている。国風、大雅、小雅、頌の四つを始といい、詩の至であると、これは同じ音の字を重ねての言葉遊びになっている。「詩」が「志」の発露であり、「四」つの「始」に分類され、「至」となる。

 詩が音楽から始まったというのは、文字によって記述される以前の詩はあくまで耳によって聞かれるもので、それが散文と異なるのは文法や論理以外の音声的秩序を持つことであるため、音楽の一種として認識されたのであろう。
 つまり、文法や論理以外の別の秩序を持つ文章、それが詩の定義と言っても良い。
 秩序には能記の秩序と所記の秩序が考えられる。能記の秩序は、音の響き、リズムの持つ秩序で、押韻や音節数の定型へと発展する。所記の秩序は内容の類似や対比で、比喩や対句へと発展する。
 なぜ言葉にこうした秩序が求められるかというと、それは文字のなかった時代はどんなに画期的なアイデアが生まれても、それは忘却との戦いだったからだと思う。忘れないために言葉にできる限り複雑な構造を持たせることから、詩は生まれたのではないかと思う。
 そして詩を忘れないためには、さらにそれを音楽として構造化し、さらに舞踏や芝居などにも発展させてゆく方が忘却を免れる率を高めることができたのだと思う。
 残っている詩は少なくとも忘却との戦いに勝利した詩であり、高度な構造を持つ覚えやすい詩が残り、そうでないものは淘汰される。
 むしろ、詩が文字によって記述されるようになってから、詩の構造はゆるくなり、出版文化の発展が自由詩や散文詩の盛況に繋がっていったのではないかと思う。
 詩の長さという点では、文字のなかった時代には物語を詩の形式で記憶し、語り継いだため、むしろ長編叙事詩の時代だった。それが文字によって記述されるようになると、物語は散文になり本になり、詩から独立していった。叙事詩の時代が終ると、詩は比較的短いものばかりになっていった。
 音楽の起源はよくわからないが、狩猟民族の音楽は単純で、歌詞のない歌が多いともいう。おそらく記憶すべきものがそれだけ少なかったのだろう。農耕牧畜社会になってから、音楽は複雑に発展してゆくことになる。
 かつてのマルクス史観では、歌は労働歌に始まったと言われたが、民族学的には裏付けられていない。音楽は余暇に歌われるのが普通だ。原始的な社会では一日の労働時間が極めて短い。有り余る時間の中で音楽は生まれる。それは人と人とをつなぐ仲立ちだった。
 東アジアの長江文明のもとでは歌は歌垣を生み、恋歌が主流となっていった。これが東アジアの風雅の原型となってゆく。中国ではあのオスプレイの歌が漢詩の起源となり、日本では出雲八重垣の歌が和歌の起源となる。
 風雅の原型は恋歌にあり、その非暴力的で婉曲な表現が、感情の生々しさを和らげ、他の分野においても恋歌に準じた表現が風雅の基本になって行く。

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