旧暦だと二月十日。天気のいい日が続きそうなので、今年は満開の花と満月との共演が見られそうだ。ただ、南の方には早くも台風がって話もある。
マスコミはネット上のフェイクニュースのことを問題にするが、引き合いに出される例はたいていアメリカの大統領選のことで、実際日本ではそんなにフェイクニュースは深刻な問題になっていない。
思うにフェイクニュースというのはフェイスブックのシステム的な問題ではないかと思う。つまり似たり寄ったりの考え方の人間をつないでしまうため、そうした人たちに受けの良い偽ニュースを流すと簡単に食いつく、というのが問題なのではないかと思う。日本ではフェイスブックは商用以外ではほとんど活用されていない。
ツイッターも似たような性格がある。日本で飛び交うデマはたいていツイッターで拡散されている。
日本には2ちゃんねる(正確には今は「5ちゃんねる」になっている)という匿名の掲示板があり、ここではネトウヨもパヨクもそのほかいろいろな考えの人たちも区別なく書き込み、玉石混交のカオスな世界を形作っているが、こういうところだと、右がデマを流すと左が躍起になってその嘘を暴こうとし、左がデマを流すと右が躍起になってその嘘を暴こうとするから、結局どちらのデマもすぐばれてしまう。
むしろ日本で問題なのはマスコミの偏向や印象操作の方で、ネット上のフェイクニュースはほとんど問題になっていない。海外の人は参考にして欲しい。
さて、世間話はこれくらいにして、「うたてやな」の巻の続き。
二表に入る。二十三句目。
常盤の松に養子たづぬる
根なし草根の出来けるは豊にて 才麿
松に根なし草を付けるが、この「根なし草」は比喩で、今日でもよく用いられる言葉だ。要するに職業が定まらない状態を言う。職業が定まらないと、住所も定まらなくなることが多い。浮き草稼業というわけだ。
その根なし草に根が出来るとなれば、それはようやく実を落ち着けられるような定職が見つかったということだろう。牢人だったら仕官が決まったということか。
定職に着けば経済的にも安定し、女房も見つけ、次は跡取り息子が欲しくなる。まあ、常盤の松のような職場の長老に相談でもしてみようか、というところか。
二十四句目。
根なし草根の出来けるは豊にて
いつも曇ぬ国ぞしりたき 鬼貫
伊丹から大阪に出てきた鬼貫さんは、ちょうど士官の口を探していたところで、だが中々現実は甘くなかったのだろう。そんな自分の境遇を茶化して、こんな句にしちゃうあたりはさすが洒落てる。自分が仕官できないのは、世の中が曇っているからとでも言いたげだ。
とはいえ、句の表向きの意味は逆で、いつも晴れてたら旱魃になって草も木も枯れてしまうから雨は必要。根の出来るのは曇って雨が降るおかげ。曇るから豊かになれる。曇らぬ国なんてあるわけないし、あるなら知りたいものだ、という意味になる。
二十五句目。
いつも曇ぬ国ぞしりたき
難儀なる風の千島に住馴て 西鶴
『元禄俳諧集』新日本古典文学大系71の註は、
胡沙吹かばくもりもぞするみちのくの
えぞには見せじ秋の夜の月
西行法師(夫木抄)
を引いているが、西鶴は談林の王道を守って律儀に證歌を引くので、おそらくこれで間違いないだろう。
胡沙は今ではアイヌ語のホサ(息)ではないかと言われているが、この時代はおそらく字の通り「胡(西域の国)」の沙(砂)ではなかったかと思う。モンゴルの砂嵐で蝦夷の人は名月が見えないとは、当時の地理認識の混乱振りがわかる。
千島については、
あたらしや蝦夷が千嶋の春の花
ながむる人もなくて散ちなむ
滋円(拾玉集)
など、正確な位置はどうだか知らないが、都の人にもその存在は知られていた。
胡沙の吹く千島に住み慣れれば、月が曇って見えないのが当たり前で、「いつも曇ぬ国ぞしりたき」と付く。
二十六句目。
難儀なる風の千島に住馴て
我女房に逢もうるさや 来山
前句を比喩にして、千島のように難儀な風(習慣)のある家に住み慣れて、自分地の女房に逢うのも一々面倒だ、と付く。
「うるさし」はかつては面倒だという意味で、今のうるさいは「かしまし」だった。古語辞典によると心(うら)狭(さ)しが語源だという。「あいつは俳諧にはうるさい」という場合は、薀蓄が止まらなくて五月蝿いのではなく、本来は俳諧という狭いところに心を入れ込んでいる、というような意味だったのだろう。
二十七句目。
我女房に逢もうるさや
鼠尾草は泪に似たる花の色 補天
「鼠尾草」は「みそはぎ」と読む。鼠尾草で検索すると中国語が出てくる。現代中国ではSalvia officinalis(Sage)とあるからセージのことを指す。百度百科には、Salvia japonica Thunbとある。これはアキノタムラソウを指す。これに対しミソハギはLythrum anceps。ただ見掛けは似ている。
ミソハギは盆花とも言われていて、旧盆のころに咲く。そこから、前句の女房を死んだ女房とし、お盆に帰ってくるとはいっても逢うのは心苦しいという意味に取り成す。
二十八句目。
鼠尾草は泪に似たる花の色
歌書まよふ秋の碓 瓠界
「碓」は「からうす」と読む。「碓氷峠」の「うす」。
『元禄俳諧集』新日本古典文学大系71の註には「『秋の暮』なら歌になるが『秋の碓』では歌になりにくい。どのように詠んだらよいか。」とある。ただ、「碓」と「暮」とでは違いすぎるので「雁」とした方が良いのではないか。草書だとかなり似ている。
この場合は秋の雁と書こうとして「雁」と「碓」の違いがわからなくなった、という意味ではないかと思う。
鳴き渡る雁の涙や落ちつらむ
物思ふ宿の萩の上の露
よみ人しらず(古今集)
が本歌か。
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