2018年3月15日木曜日

 今朝は東の空に爪で引っ掻いたような細い月が出ていた。逆三日月というか、ようやく睦月も終ろうとしている。
 この調子だと、今年は如月の望月を桜で迎えられそうだ。桜に朧月、花に月、昔の人が望んでもなかなか得られなかったもの、見てみたいな。
 さて詩経大序の続き。
 是以一国之事、系一人之本、謂之風、言天下之事、形四方之風、謂之雅。

 (これをもって一国のことを一人の本につなぐ。これを風という。天下のことを言い四方の風を形作る。これを雅という。)

 民衆の間でどこからともなく生み出されては流行する民謡は、情に発し礼に止むことによって、先王の権威に結び付けられ、国と一人一人の人間とを結びつける。それらは先王の道として庶民一人一人の思うことを、今で言う世論として国家体制の中に一つの意見として組み込むことができる。これを「風」という。
 これに対し、王朝の側から天下のことを、やはり一つの「風」として流行させ、広く周知させることを「雅」という。
 風と雅は下からか上からかの違いはあれ、ともに流行し、変風変雅を形作る。この変風変雅を後に略して「風雅」と呼ばれるようになったのだろう。
 変風変雅は官僚が支配する中国の体制のなかで、庶民の情を汲み上げ政治に反映させるシステムとしては、不完全ながらも一種の民主的なシステムだった。
 今の韓国の「国民情緒法」はこうした変風変雅の名残なのかもしれない。それは西洋の「社会契約」に基づく民主主義とは異なる、感情の爆発が政治を動かすというやや別の方向性を持つもので、国民が怒れば法も条約も曲げることができるという思想に貫かれている。
 日本でもしばしば「住民感情」という言葉がメディアで重要な意味を持って取り上げられている。住民意志でもなく住民の理性でもなく、「感情」という言葉が用いられる。このあたりも韓国の「国民情緒法」に近いものがある。ともに東アジアの古い政治形態の名残といえよう。
 西洋の民主主義が、古代ギリシャ以来「投票」による多数決によって住民の意思を数値化してきたのに対し、感情による政治は声の大きいものが勝つと言ってもいい。
 実際、今の日本では、多数決原理は「民主主義を踏みにじる」とまで言われている。声の大きさということになると数は問題ではなく、ただいかに口汚くえぐく相手を罵れるかが勝負になる。そこには風雅の本来の「礼」など微塵もない。ある意味、韓国の「国民情緒法」よりもたちが悪い。彼等が「ラップ」と称するものもヒップホップとはまったく別もので、シュプレヒコールの変形でしかない。わけもなく怒り狂っている人間が最強なのが今の日本の社会だ。「切れたもの勝ち」などとも言われている。
 余談だが、ヒップホップのMCバトルは本来聴衆による多数決で勝敗が決まるものだが、日本では審査員がいて上の方で勝手に勝敗を決める。
 本来風雅は情に発することも大事だが、情を無制限に爆発させるのではなく、「礼に止む」ことも重要だった。特に俳諧に端を発する江戸時代の風流は、基本的に最後は笑いにもってゆくということだったと思う。怒り狂うやつは野暮で、そこを笑って収めるのが粋だった。今日でいう「神対応」というやつだ。
 古代に日本では、和歌・連歌の風雅が「怒り」に結びつくことはなかった。万葉の時代には皇子同士が血で血を洗うような抗争も見られたが、ひとたび道鏡を契機に天皇制が確立されると、暴力的な皇位争いも終息し、死刑のない平和な時代が訪れた。
 実際に貴族同士の小競り合いや、地方での反乱は何度もあったが、日本の風雅の道は非暴力を貫いた。戦争を煽るような勇ましい歌がなかったというのが和歌の誇りともいえよう。
 この平和主義の伝統が、江戸時代の庶民の手に渡り「俳諧」となったとき、怒りより笑いの文化が育まれていった。

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