今日の暖かさで桜も一気に開いた。都内は満開になったという。ただ、標本木が80パーセント咲けば満開というらしい。
近所もこの前開花したと思ったらあっという間に五分から七分咲きになり、
世の中は三日見ぬ間に桜かな 蓼太
とはよく言ったものだ。
では「うたてやな」の巻の続き。
十九句目。
火に焚て見よちりの世の花
さびしきに喰てなぐさむ土筆 瓠界
前句の「火に焚て」は夜桜ではなく火を焚いて暖を取りながらの食事の風景になる。「さびしき」は山奥での隠棲の寂しさで、最初は塵の世が嫌になって出家して山に籠るのだが、しばらく暮らすと憂き思い出がだんだん美化され、懐かしくなり、寂しくもなる。
憂き我をさびしがらせよ閑古鳥 芭蕉
の句は、この一年後に芭蕉が詠む句だが、中世の『水無瀬三吟』には、
山深き里や嵐におくるらん
慣れぬ住ひぞ寂しさも憂き 宗祇
の句もある。もともと世間の憂鬱からのがれるための隠棲で、最初は憂きがまさり、段々寂しさに変わってゆく過程は不易と言ってもいいのだろう。
土筆はここでは「つくづくし」と読んで五文字にする。元禄二年の『阿羅野』に、
すごすごと親子摘けりつくづくし 舟泉
すごすごと摘やつまずや土筆 其角
すごすごと案山子のけけり土筆 蕉笠
土橋やよこにはへたるつくづくし 塩車
川舟や手をのべてつむ土筆 冬文
つくづくし頭巾にたまるひとつより 青江
という一連の「つくづくし」の句がある。「すごすごと」は今でいうと「黙々と」という感じか。
さて、瓠界の句の意味だが、隠棲の寂しさは土筆を食べると故郷で子供の頃摘んだ土筆のことを思い出して、慰められた気分になる。火を焚いて食事をしていると、桜がほのかに見えて浮世の桜を思い出す。というところか。
二十句目。
さびしきに喰てなぐさむ土筆
獺のまつりの魚を拾はん 補天
困ったことに「獺祭」で検索すると日本酒の銘柄ばかりが出てきてしまう。「獺祭 出典」で検索するとコトバンクが出てくる。その「デジタル大辞泉の解説」には、
1 《「礼記」月令から》カワウソが自分のとった魚を並べること。人が物を供えて先祖を祭るのに似ているところからいう。獺祭魚。おそまつり。うそまつり。
2 《晩唐の詩人李商隠が、文章を作るのに多数の書物を座の周囲に置いて参照し、自ら「獺祭魚」と号したところから》詩文を作るとき、多くの参考書を周囲に広げておくこと。
とある。正岡子規も獺祭書屋主人を名乗り、「獺祭書屋俳話」を書いた。この鈴呂屋俳話もそのオマージュである。
前句の寂しさに土筆を食う人物を隠逸の文士と見て、獺祭のように本をたくさん広げていると付ける。蕉門の「位付け」に似ている。ただ、土筆は川原に多く見られるので、川獺と縁がある。
二十一句目。
獺のまつりの魚を拾はん
儒といはれたる身のいそがしさ 万海
「儒」は「ものしり」と読む。「ものしり」は今日のようないろいろなことを知っている人という意味もあるが、祈祷師や占い師を指して言うこともあった。「儒」も元の意味は雨乞いをする人だという。占い師として名が立つと次々に占って欲しいという人がやってきて大忙し。いろいろな占いの書物を広げては、この人にはこれを、あの人にはこれをと書物を見ながら占う。
二十二句目。
儒といはれたる身のいそがしさ
常盤の松に養子たづぬる 西鶴
古今集の、
常磐なる松のみどりも春くれば
今ひとしほの色まさりけり
源宗于朝臣
の歌を踏まえ、常盤の松の「見取り(多くの中から選び取ること)」を養子探しとする。占い師も忙しくて養子を取って手伝わせたい所か。
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