「杜若」の巻の続き。
初裏。
七句目。
それとばかりの秋の風音
捨かねて妻呼鹿に耳ふさぎ 如風
これはひょっとして「剃れとばかり」に取り成したか。
山奥に妻呼ぶ鹿のビイというこえが聞こえてきて、人の世も悲しければ山に住む鹿も悲しげで、俊成卿の、
世の中よ道こそなけれ思ひ入る
山の奥にも鹿ぞ鳴くなる
皇太后宮大夫俊成
の歌も思い起こされる。
ならばいっそ出家すればとばかりに秋の風も悲しげだが、なかなか出家には踏み切れない。
述懐の句で、中世連歌のような古風な響きがある。
八句目。
捨かねて妻呼鹿に耳ふさぎ
念力岩をはこぶしただり 安信
「念力」は今日のようなサイコキネシスの意味ではなく、本来は信じる力という意味。必ずしも仏道や信仰とは限らず、思い込みが強いと本当にそうなるという意味で、「念力岩をも通す」という諺もある。これは「石に立つ矢」の故事からきたもので、コトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」には、
「一心を込めて事を行えばかならず成就するとのたとえ。中国楚(そ)の熊渠子(ようきょし)が、一夜、石を虎(とら)と見誤ってこれを射たところ、矢が石を割って貫いたという『韓詩外伝(かんしがいでん)』巻6や、漢の李広(りこう)が猟に出て、草中の石を虎と思って射たところ、鏃(やじり)が石に突き刺さって見えなくなったという『史記』「李将軍伝」の故事による。「虎と見て石に立つ矢もあるものをなどか思(おもい)の通らざるべき」の古歌や、「一念(一心)巌(いわ)をも通す」の語もある。[田所義行]」
とある。
この句は咎めてにはで、前句の「捨かねて」を受けて世を捨てようかやっぱりやめようか迷っている人に、信じれば岩をも動かすんだと諭す体とみていい。
最後の「しただり」は鹿の声を受けたもので、一種の放り込みとみていいだろう。鹿の声に耳を塞いでるつもりでも、知らずと涙がしただる。
九句目。
念力岩をはこぶしただり
道野辺の松に一喝しめし置 重辰
「一喝」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「① 禅家の語。悟りを得させるために用いる叱咤(しった)、叫声(きょうせい)。喝(かつ)。いちかつ。〔文明本節用集(室町中)〕
※読本・雨月物語(1776)青頭巾「『作麼生(そもさん)何(なんの)所為ぞ』と、一喝(いっカツ)して他(かれ)が頭を撃給へば」 〔臨済録〕」
とある。
道野辺松の木の下で僧が同行の弟子に喝を入れ、前句をその喝の内容とする。街はずれ、村はずれの松の木の下は決闘の場所になったり、いろいろなドラマを盛り上げる上での欠かせない舞台装置と言えよう。
十句目。
道野辺の松に一喝しめし置
長者の輿に沓を投込ム 芭蕉
これは謡曲『張良(ちょうりょう)』の本説か。
張良はコトバンクの「世界大百科事典 第2版の解説」に、
「能の曲名。四・五番目物。観世信光(のぶみつ)作。シテは黄石公(こうせきこう)。漢の高祖に仕える張良(ワキ)は,夢の中で不思議な老人に出会い,5日後に下邳(かひ)の土橋で兵法を伝授してもらう約束をする。下邳に出向くと,老人(前ジテ)はすでに来ていて遅参を咎(とが)め,さらに5日後に来いといって消え失せる。張良が今度は早暁に行くと,威儀を正した老人が馬でやって来て黄石公(後ジテ)と名のり,履いていた沓(くつ)を川へ蹴落とす。」
とある。このあとのことは、「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「漢の高祖の軍師となった張良が黄石公の川に落とした沓(くつ)を取って、その人柄を認められ、ついに兵法の奥義を授かる。」
とある。「松に一喝」を遅参を咎める場面とし、沓を返す場面を「輿に沓を投込ム」と元ネタと少し違えて付ける。
十一句目。
長者の輿に沓を投込ム
から樽を荷ふ下部のうつつなや 知足
「うつつなや」はうつつでない、つまり気が確かでないこと。樽が空だというから、飲んじゃったんだろうな。長者の輿に沓を投げつけたりするなんて、普通じゃない。
十二句目。
から樽を荷ふ下部のうつつなや
岸にかぞふる八百の鷺 桐葉
これは源平合戦の富士川の戦いか。ウィキペディアには、
「平氏撤退に関しては以下のような逸話が有名である。その夜、武田信義の部隊が平家の後背を衝かんと富士川の浅瀬に馬を乗り入れる。それに富士沼の水鳥が反応し、大群が一斉に飛び立った。『吾妻鏡』には「その羽音はひとえに軍勢の如く」とある。これに驚いた平家方は大混乱に陥った。『平家物語』や『源平盛衰記』はその狼狽振りを詳しく描いており、兵たちは弓矢、甲冑、諸道具を忘れて逃げまどい、他人の馬にまたがる者、杭につないだままの馬に乗ってぐるぐる回る者、集められていた遊女たちは哀れにも馬に踏み潰されたとの記載がある。事実がどのようなものであったかは不明ではあるが、平家軍に多少の混乱があったものと推察される。」
とある。
平家が合戦を前にして飲んだくれていて、水鳥の羽音を敵軍と聞き誤ったとする。
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