今日は八王子城跡へ行った。一部石垣や礎石が残り、歴史オタクからすればいろいろと興味深いものがたくさんあるのだろう。御主殿の滝が血に染まったとかそれくらいの話は知っているが、基本歴史に疎い私としては、山登りのハイキングだった。
本丸跡まで標高445mを登って降りて、いい運動になった。
それでは『俳諧問答』の続き。
「秋のくれと云句二ツ、余は行秋と云句也。秋のくれと云共、暮秋の心を兼たる句もあり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.132)
この三句が何を指すのか明示されていないが、許六・李由撰『韻塞』の九月の所の末尾三句か。
のびのびて衰ふ菊や秋の暮 許六
謝芭蕉被訪草庵悦而旧交
十年もこと葉一つよ暮の秋 蝉桃
行秋や身に引きまとふ三布蒲団 翁
二句目は「暮の秋」になっている。許六の記憶違いか。
三句目の「三布蒲団(みのぶとん)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「〘名〙 (『の』は布の幅) 三幅の布で作った蒲団。敷蒲団に用いる。みの。
※俳諧・韻塞(1697)九月『行秌や身に引まとふ三布蒲団〈芭蕉〉』」
とある。
「暮秋の心を兼たる句」が次の文章に繋がる。
「予が撰集、予が句に、
のびのびておとろふ菊や秋の暮
と云ハ、暮秋を兼て、九月の中に入れたり。秋の暮ハ、皆八月ニ入るなり。
此集も、てにはあやまり論ゼバいとまなし。序文の自句にて大方しれたり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.132)
「皆八月」とは言っても八月の所には、
大きなる家ほど秋のゆふべかな 許六
の句しかない。
それに、「のびのびて」の句は特に夕暮れという感じがしない。普通に「暮の秋」の意味でよかったのではないかと思う。
「序文の自句」は『韻塞』が乾と坤に分かれている、坤の方の序文の、
水すじを尋ねて見れば柳かな
の句のことか。
今の表記法だと違和感はないが、当時の書き方だと「水すじを尋て見ば柳かな」と書くところで、ある意味で近代的だ。
自分の撰集についてこのように言うということは、結局てにはの間違いは版本にする段階の校正の問題だったのか。まあ、当時は校正を専門にやる人はいなかったのだろう。
「一、予が難問に云ク、近年ミだりかハしき集共出ると云ハ、如此の事也。見極て申侍る。過言ニハあらず。高弟よくきき分ケ給ヘ。一句無理にきこえ侍るといへば、是非なし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.132)
高弟へ注意しているのは、どこの撰集を見ても結局間違いが多いということで。それを真似するなということだったのではないかと思う。
間違っているものを無理矢理こじつけたり、想像力をたくましくして意味を補ったりして、強引に理解するようなことをする必要はないが、ただ気を利かせて直してしまうと、実は間違いではなく深い意味があるのかもしれない。難しいところだ。
『野ざらし紀行』の、
二月堂に籠りて
水とりや氷の僧の沓の音 芭蕉
の句も、蝶夢(ちょうむ)編の『芭蕉翁発句集』(安永三年刊)では「水とりやこもりの僧の沓の音」とあり、また、『芭蕉句選』(元文四年刊)では「水鳥や氷の僧の沓の音」と書かれていたという。
芭蕉真筆の原稿であってもこれは間違っていると思って、あえてこのように直したのだろう。本人はもはや故人となっているから、確かめることも出来ない。
実のところ今日の我々も本当にこの句が真筆通りだったのかどうか証明することはできない。ただ真筆であるがゆえに尊重すべきと考えているだけだ。ただ、芭蕉真筆にも誤字はある。どんな物事でも絶対はない。
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