2019年5月6日月曜日

 早いもんで春は終わり今日は旧暦四月の二日。そして九連休も今日で終わり。明日からまた灰色の日々が‥‥。
 生きるためには働かなくてはいけないし、生き残るためには戦わなくてはいけない時も来るかもしれない。ただ、忘れてはいけないのは、結局われわれはその「ために」生まれてきたのではないということだ。
 生存のため、子孫を残すため、それは遺伝子の命令ではない。ただ我々は生存し、子孫を残したものの血を引いてるというだけのことで、血に拘束されているわけではない。
 生きとし生けるもの、結局はみんな同じだ。生存し子孫を残したものの子孫であることには変わりないが、それは結果であって何に命令されたわけでもない。それが究極の自由(かまわぬ)だ。
 互いに同じ生きる者として共鳴し合い、そしてお互いの違いも知る。遊びはいつもそれを教えてくれる。
 それでは『俳諧問答』の続き。

 「深川集に出る予が宅のはいかいニ云、
 今はやるひとへ羽織を着つれたち
 奉行の鑓に誰もかくるる     翁
 此巻出来終て師の云ク、此誰の字、全ク前句の事也。是仕損じ也といへり。
 今此句に寄て見る時、右両句前句ニむづかし。予閑に察して云ク、第一時代の費あり。又ハ師名人たりといへ共、執着の病あり。師さへ如此し。門人猶以たるべし。前句ニ着シ、題ニ着する事、人情の病也。毎度此俳諧をよむ時、したしきやうにおぼゆ。
 退て吟味すれば、此二字前句にむづかし。師在世の時、此事沙汰侍らずや。先生よくしり給ハむ。次でながらしるす。外へハ弥沙汰なし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.134~135)

 これは元禄五年十二月上旬、許六亭での興行された、

 洗足に客と名の付寒さかな    洒堂

を発句とする歌仙で、三十二句目に、

   今はやる単羽織を着つれ立チ
 奉行の鑓に誰もかくるる     芭蕉

とある。
 前にも述べたが、「誰も」の誰は「今はやる単羽織を着つれ立チ」たむろしていた衆そのもので、重複になるというわけだ。「さっとかくるる」くらいでも良かったということだろう。
 「誰も」だと登場人物が複数いなくてはいけないが、なければ一人でもいいことになり次の句の展開の幅が広がる。
 『山中三吟評語』に、「馬かりて」の巻の四句目、

   月よしと角力に袴踏ぬぎて
 鞘ばしりしをやがてとめけり   北枝

の句の時、

  鞘ばしりしを友のとめけり   北枝
 「とも」の字おもしとて、「やがて」と直る

と言ったのと同じで、この場合も相撲を取る場面では人が何人か集まっているさまが想像できるから、「友」と言わなくても意味は伝わる。
 友の字がなければ次の句の登場人物は単体でもよくなり、

   鞘ばしりしをやがてとめけり
 青淵に獺の飛こむ水の音     曾良

という展開が可能になる。曲者!とばかりに刀を抜き放つと、何だ川獺か、という落ちになる。
 許六もそのときは気付かなかったのだろう。言われて見るとなるほど重複してうざいかな、ぐらいのところか。
 こうした細かいことを後になってから気にするのは、一に執着の病、二に人情の病で、それほど問題にすることでもない。

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