2019年5月30日木曜日

 一組の男女が平均して二人の子供を作った場合、その二人の子供が二人の子供を作るまで生きられれば人口は維持できるが、何らかのアクシデントでそこまで生きられなかった場合を考えると、二人の子供では人口は減少する。人口を増やすためには誰かが三人の子供を生み、平均を二人よりやや大目にしなくてはならない。
 これをわかりやすく言うと、人口を減らさないためには女性にはできれば三人の子供を生むことをお願いしたい、ということになる。
 ただ、これは人口を減らさないということが至上命令になっているという前提の話で、既に地球には七十億の人口があり、これ以上増えれば食糧危機も危惧される中、むしろ飢餓や戦争などによらない、あくまで出生率の低下という平和で自然な形で人口が減少に転じるなら、それは決して悪いことではない。
 果して少子化対策なんて本当に必要なのかどうか、議論すべきはそこなのではないかと思う。少子化対策が必要なら、どういう言葉を使おうが結局は女性に三人の子供の出産をお願いすることになる。
 それでは「応安新式」の続き。

 可嫌打越物は「連歌新式永禄十二年注」に「付句くるしからず。」とあり、打越のみを嫌うだけで、たとえば発句に、

 炎天下待ち行列に草生える   玉森裕太

とある場合、「草生える」は笑いを意味するwwwwwwのことで非植物(うゑものにあらず)であるため、打越つまり第三に植物(うゑもの)を出すことはできないが、脇に、

   炎天下待ち行列に草生える
 こうべを垂れる庭の向日葵

と植物を脇に付けるのはかまわないということだ。
 このあとの第三に植物を続けて詠むことはできない。

 「月に日次の日 日に月次の月」も似て非なものということで同様に考えることができる。光物の月と日は可隔三句物だが、一月二月睦月如月などの月は光物ではない。同様に六日七日などの日も光物ではない。似て非なる物であるが故に可嫌打越物になる。
 「種まく野べの色づく 冬がれの野山にうへ物 竹に草木 梢にすゑ」この辺も同じ。「種蒔く」は植物の種をまくのだがそれ自体は植物ではない。「野辺の色づく」も植物が色づくのだが植物としては扱われない。「冬枯れの野山」も植物が枯れるのだが植物としては扱われない。ただこれらは植物のことを詠んでいるので打越を嫌う。
 竹が草か木かは今日の植物学者の間でも意見が分かれているという。「連歌新式永禄十二年注」には、

 「もろこしには、草の部に用也。古今の歌に
  木にもあらず草にもあらぬ竹のよのはしに我身はなりぬべら也
 是によりて、木にも草にも付ざる也。」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.59)

とある。「竹のよ」は世に掛けて用いられている。
 竹も草に似て非なる物、木に似て非なる物ということで、草にも木にも打越を嫌うものとなる。
 「梢にすゑ」は「こずゑ」は木の末で末が含まれているが、一応別の単語ということで同字五句去りにはならない。
 「碪に衣裳之類 音声に響 顧に見」の「砧」衣を打つことだがそれ自体は衣装ではない。「ね」「こゑ」に「ひびく」も同語ではないが同じような意味なので打越を嫌う。「かえりみ」に「み」は梢と同様、おなじ「み」の言葉が入ってはいるが、同字とはせず、打越のみ嫌う。
 「夕に春秋の暮 樵夫に木の字」夕暮れに「夕」に暮春暮秋の「暮」も意味が違うので打越のみを嫌う。「きこり」は木をこる人で「木」の字が入るが同字としては扱わない。
 「影に陰 面かげにかげ」の「影」と「陰」の違いはわかりにくいが、見えている影と、見えない部分の陰との違いか。人影、火影、月影などは見えているが、木陰、物陰などは見えない陰になる。ネット上の「違いがわかる事典」には、

 「影は、『月の影』のように、元々は日・月・星・灯火などの光を表す言葉。
 そこから、光が反射して、水や鏡の面などに映る物の形や色などを表わし、光が遮られることで見える物の姿や形、黒い部分などを表わすようになった。
 陰は、日光や風雨が当たらない部分で、必ずしも光と対ではない。
 光との関係で考えた場合は、光が遮られることで現れるのが『影』、見えなくなったところが『陰』となる。
 陰は、見えないところの意味から、『陰で悪口を言う』のように、その人のいないところや目の届かないところ、『陰のある人』のように、表面には出てこない暗い面の意味でも使われる。」

とある。
 「面影」と「影」は同字が含まれるが同字として扱わない例に入る。
 「遠にはるかなり 袖ぬるるに涙 なくに涙(鳥獣のなくは別の事也) 別に帰(恋の心は同事也) 別にきぬぎぬ 思に火(可依句体也)」これは「とほい」に「はるか」は似ているため打越を嫌う。「袖ぬるる」は涙で濡れたものであるため、近い言葉として打越を嫌う。「なく」に「涙」も同じ。ただし動物や鳥や虫の「鳴く、啼く」は同じ「なく」でも意味が違うため、打越でも嫌わない。
 「別に帰(恋の心は同事也) 別にきぬぎぬ 思に火(可依句体也)」のうち「わかれ」と「かえる」は恋の場面なら同じ意味になるので打越を嫌うが、そうでないなら嫌わない。「わかれ」に「きぬぎぬ」は同じ意味なので嫌う。「おもひ」に「ひ」は分かりにくいが、「連歌新式紹巴注」には、

 「もゆるおもひ・胸のおもひは、消えがたきなど云句嫌也。只のおもひと云には不嫌也。」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.164)

 これも恋に限定された嫌いのようだ。
 「ぬとぬと すとすと 過去のし文字」の「ぬ」と「ぬ」は完了の「ぬ」同士が打越を嫌うということで、否定の「ぬ」は特に嫌わない。「す」と「す」は否定の「ず」と「ず」のこと。過去の「し」同士も打越を嫌う。
 ただし、両方とも句の末尾に来ると韻字になるので打越を嫌う。

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