『戦国を往く連歌師宗長』(鶴崎裕雄、2000、角川叢書)をぱらぱらとめくっていたら、丸子宿の説明板にあった「丸子という里、家五、六十軒、京鎌倉の旅宿なるべし」という宗長の言葉の出展が『宇津山記』だというのがわかった。
このあと、
「市あり。北にやや入りて泉谷といふ。安元先祖(斎藤加賀守安元)よりの宿所。奥深き禅室観勝院。滝あり。門前に流れ、たためる巌なめらかにして、松杉さい入りより、心澄むべっく見ゆ。左の岨に観音の霊像、行基菩薩の御作とか言ひ伝へぬ。此の上にも滝の音して堂の前にみなぎり落つ。大きなる嶽横たはりて、谷のふところ広く、鳥の声かすかに、猿梢に叫ぶ。暁閑居の寝覚め耐えがたし。予、早う二十歳ばかりの程よりここに心を占めしにや。」
と続く。
ここに柴屋軒を結んだのは永正三年(1506)、宗長59歳の時のことだという。今は吐月峰柴屋寺になっている。
禅室観勝院は歓昌院のことで、吐月峰柴屋寺よりも川上にある。千手観音を御本尊としている。
観音堂は柴屋寺の先左にあるらしい。ただ、行基菩薩の作ではなく運慶の作らしい。どっちにしてもビッグネームには違いないが。
『宗長日記』(島津忠夫校注、1975、岩波文庫)の「宗長手記」大永六年(1528)の二月九日の所に、
「宇津の山泉谷、年比しめをき行かよふ柴屋、石をたて、水をまかせ、梅をうへなど、普請のつゐで、かたはらに又杉あり、松あり、竹の中に石をたたみ、垣にして、松の木三尺ばかり、一方けづりて、
柴屋のこけのしき道つくるなり
けふをわが世の吉日にして」
とある。
ただ、旅をすることが多い宗長さんのことだから、しばらく留守にして戻ってみると荒れ果てて修繕したり、大変だったようだ。大永七年のところにこうある。
「柴屋一とせ七月十四日朝の野分に、客殿吹こぼたれつとききし。其比越前にありて、帰下ても久あらしはてつるを、おとどしの冬、又もとの三分一ばかりの茅屋を取たてて、ことしの七月九日に帰住て、めぐりの垣、こもすだれとりのけて、庭のながれ、浅茅の中に、埋石なども門外の川よけに、過半取いだし、のこる石ここかしこにちらし捨をきしを、又とりならべて水をすまし、心をなぐさめ侍る。」
さらには、
「宇津山柴屋庭、もとの水石所々ほりおこしなどして、過半畑になして、まびきなの種まかするとて、
まびき菜はさざれ石まの山畑の
かたしや老の後まきの種」
とある。
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