2017年1月15日日曜日

 さてついに「雪の松」の巻の最後の三句となった。今回も「ゑびす講」の巻、「むめがかに」の巻同様、鈴呂屋書庫蕉門俳諧集にアップしたのでよろしく。

三十四句目
   約束にかがみて居れバ蚊に食れ
 七つのかねに駕籠呼に来る  杉風
 (約束にかがみて居れバ蚊に食れ七つのかねに駕籠呼に来る)

 七つは寅の刻で夜もまだ明けぬ頃、夏なら午前三時過ぎくらいか。「お江戸日本橋七つ発ち」というくらいだから、昔の旅人はこれくらいの時間に宿を出たのだろう。七つの鐘のなる頃に呼びに来たのだが、仕度に時間がかかっているのかなかなか出てこない。待っているうちに蚊に刺されてしまったということで、前句の恋から駕籠かきあるあるに転じる。
 次は花の定座。杉風さんのことだから駕籠に乗って花見にという展開も考慮してか。
 わかりやすい句で問題はない。『俳諧七部集打聴』(岡本保孝、慶応元年~三年成立)の「呼ニヤルマデココニ待テト、駕籠ノモノヲ待セオクニ、蚊ニクハレナドシテ困リタルヲ、今ハハヤ七ツト云ニ呼ニ来シ也。」がわかりやすい。

無季。

三十五句目
   七つのかねに駕籠呼に来る
 花の雨あらそふ内に降出して   桃隣
 (花の雨あらそふ内に降出して七つのかねに駕籠呼に来る)

 七つの鐘は朝だとまだ夜も明ける前で花見に行くには早すぎる。ここは春でも申の刻、午後四時頃の鐘に取り成す。となると、花見の帰りの駕籠ということになる。昔は不定時法なので季節によって今の定時法の時刻より早くなったり遅くなったりした。
 花見で酒が入れば酔って喧嘩になることもあったのだろう。あるいは雨が降りそうなので帰る帰らないで言い合っていたか。つかみ合いわめき散らしているうちに雨が降りだして喧嘩は水入り。さあ帰ろうということでもう日が暮れかかったころに駕籠を呼びにやる。
 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「うしろ附なり。○花見の迎駕に附なして後の七ツに転ぜり。」とある。「うしろ附」という言葉は江戸後期になって作られた言葉ではないかと思う。
 本来短句に長句を付ける場合は後ろ付けになり、「て」止めのとき以外は前づけにするほうが特殊だったのだが、蕉門も軽みの頃には「後ろ付け」は附けにくいというので長句を付けるときにも前付けが多くなったのだろう。
 そして、幕末ともなると、もはや上句下句合わせて和歌にするという意識が薄れて、「二句一章」などという言葉が生じてきたのだろう。現代連句は完全に一句独立の連想ゲームになっているが、その根は既に芭蕉の軽みの時代に始まっていたのかもしれない。。

季題は「花」で春。植物。木類。「雨」は降物。

挙句
   花の雨あらそふ内に降出して
 男まじりに蓬そろゆる    岱水
 (花の雨あらそふ内に降出して男まじりに蓬そろゆる)

 よもぎ餅は貞享五年(一六八八)刊の『日本歳時記』(貝原好古著、貝原損軒删補)にも記されているという。もちろんヨモギは普通に食用にもなっていたし、薬用としても用いられた。蓬摘みは当時の女の仕事だったようだ。
 曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』には「[本朝食鑑]艾餅(よもぎもち)は嫩(わか)き艾苗を采(と)り、茎をさり、煮熟して、蒸糯(むしもちごめ)に合せ搗て餅に作り、三月三日必この餅を用ひて賀祝とす。」とある。「蓬そろゆる」というのはこの茎を取り除く工程を言うのか、花見に来て、雨が降りそうだから帰るかどうか言い争っているうちに雨がふり出し、雨宿りした所で女たちのヨモギの葉をそろえる作業を手伝っていったのだろう。
 無骨な男たちが慣れない細かな作業をしては女たちに怒られたり、それでいて互いにちょっと下心があったり、ほのぼのした和やかな雰囲気でこの一巻は目出度く終了する。
 『俳諧七部集打聴』(岡本保孝、慶応元年~三年成立)に、「蓬そろふるハ女ノ役ナレド、雨モフリ出タレバ、男モ交リテ手伝スルサマ也。」とある。

季題は「蓬」で春。植物。草類。「男」は人倫。

 子珊の『別座敷』の序に芭蕉の言葉として「今思ふ体は、浅き砂川を見るごとく、句の形、付心ともに軽きなり。其の所に至りて意味あり。」とある。この歌仙も古典の風雅だとか出典とかと関係なく、日常誰もが感じているようなあるあるネタを中心に展開されている。季節の句もほんの息抜き程度で、無季の句が半分以上を占める。句の付け方も、短句に対して長句が付くときに、「て」止め以外でも前付けになる傾向が見られる。
 芭蕉はトレンドに逆らうような人ではない。自分は古くなったと感じていても、門人たちが新しい俳諧を作ってくれることを疑っていない。そういう芭蕉の態度がこの歌仙になったのだと思う。まさに「浅き砂川」を水に漬かることなく渡っていくように、三十六句軽やかに駆け抜けていった感がある。
 ただ、俳諧がより誰でも出来る簡単なものになって行くと、必ずそれを面白く思わないものも出てくる。人間にはやはり人より秀でたい、目立ちたいという欲求がある。人の知らない難解な言葉を知り、難解な書物を出展にし、一部のマニアックな人だけにわかればいいという人たちもいる。其角の江戸座俳諧はそうした層を巧みに取り込んでいったのだろう。俳諧一巻を一般から募り、それに加点して本にする、いわゆる点取り俳諧への道を開いたのがこの流れだった。
 難解な句は一度聞いても意味が通らないが、書物なら何回でも読み返して考えることが出来る。最後まで人と人とが面と向き合って談笑する興行俳諧にこだわった芭蕉の俳諧は、出版文化の拡大とともに苦しいものとなっていったのは確かだ。
 興行が廃れ書物俳諧になってゆくと、広く投句を募り、それを本にすれば、投句者層がそのまま読者になってくれる。より投句者を増やすには一巻を募集するよりも、発句なり付け句なり一句だけで投句できたほうがいい。こうして江戸中期には川柳点が流行することになる。俳諧も発句中心になり、連句は廃れて行く。
 明治になり正岡子規が行った俳句革新も、基本的にはこの流れに沿ったものだった。子規の俳諧連句は数えるほどしか作られてない。発句のみを公募し本に載せることで、投句者が同時に読者となり本の購買者となる点取り俳諧の経営手法を継承している。
 こうした書物俳諧も、いまやネットに押されて過去の物になりつつある。ネット上では別に撰者に選ばれなくてもいくらでも呟くことができる。投句料も要らなければ本を買う必要もない。そして五七五という形式も必要ない。投稿はテキストでも画像でも動画でも何でも良いわけだ。
 ただ、形式は廃れても結局その精神は不易ではないかと思う。人はいつの世でも平和で身分の別なく談笑できる場を求めている。それは信じていい。

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