さて、「梅若菜」の巻は初裏に入る。
七句目
二階の客はたたれたるあき
放やるうづらの跡は見えもせず 素男
(放やるうづらの跡は見えもせず二階の客はたたれたるあき)
これはおそらく『猿簔箋註』(風律著か、明和・安永頃成)に「速に座を立たるをうづら立といふ」とあるように、二階の客を鶉に例えたものだろう。「うづらだち」という言葉は古語辞典にも載っている。急に帰る無作法をいう。こういう比喩の句だと、次の句は本当に鶉を放った情景として展開できる。
『七部集振々抄』(振々亭三鴼著、天明四年)に「客の逗留中など飼置たるを放ちやる也。一句放生会なり。」とある。確かに話としては通じるが、果たしてそのようなことは当時よくあることだったのかどうかが問題だ。多くの人が共感するような「もっとも、しかり」、今でいえば「あるある」と言えるようなことだったのなら、この解釈で良いのだろう。
季題は「鶉」で秋。鳥類。前句の「秋」もいわゆる「放り込み」で必然性のない季題だったように、ここの「鶉」も比喩ではあるが式目の都合上秋ということでいいのだと思う。
八句目
放やるうづらの跡は見えもせず
稲の葉延(はのび)の力なきかぜ 珍碩
(放やるうづらの跡は見えもせず稲の葉延の力なきかぜ)
飛び去っていった鶉の跡に残っているのは、ただ稲の伸びた葉に力なく風が吹いているだけ。
ここはお約束どおり、前句の鶉を実景として展開する。「力なきかぜ」は「秋風」が輪廻になるので、こういう言い回しになったのだろう。
『猿蓑付合考』(柳津魚潜著、寛政五年一月以降成)に「鶉飛行て見えず。其跡には、田面の稲葉のびの風にそよぎ侍るのみとなむ。」とあり、これで十分だろう。
季題は「稲」で秋。植物、草類。
九句目
稲の葉延の力なきかぜ
ほつしんの初(はじめ)にこゆる鈴鹿山 芭蕉
(ほつしんの初にこゆる鈴鹿山稲の葉延の力なきかぜ)
これは西行法師の面影。「力なき風」に無常の思いを読み取り、発心を付けている。
鈴鹿山うき世をよそにふり捨てて
いかになりゆくわが身なるらむ
西行法師
の歌は良く知られている。
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「うしろがみにひかるる風情、力なきの語に出づ。刈萱西行などいふ面影ともみるべし。」とある。刈萱上人も妻子を捨てて出家するが、行き先は高野山だから鈴鹿山は越えていない。
無季。「発心」は釈教。打越の「放やるうづら」を放生会のこととすると輪廻になる。放生会とは無関係と見た方がいい。「鈴鹿山」は山類。名所。
十句目
ほつしんの初にこゆる鈴鹿山
内藏頭(くらのかみ)かと呼聲はたれ 乙州
(ほつしんの初にこゆる鈴鹿山内藏頭かと呼聲はたれ)
せっかく浮世を振り捨てたというのに、いきなり後ろから「内藏頭殿ではないか、またどうなされたのだ。」なんて俗世にいたときの名前で呼ばれてしまう。ありそうなことだ。「別人だ、人違いであろう」などと言っても「内藏頭殿であろう、間違いない」なんて言われたりして。
内藏頭で出家した人というのを史書で捜せば誰かしら出てくるかもしれないが、別に特定の誰かの故事を本説にしたわけではない。
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「懇友などの追来るならん。ふり向たる姿、眼下にあるがごとし。但京家の人とも見て此名を出せるや。」とある。
無季。「内藏頭」「誰」は人倫。
十一句目
内藏頭かと呼聲はたれ
卯の刻の箕手(みのて)に並ぶ小西方 珍碵
(卯の刻の簔手に並ぶ小西方内藏頭かと呼聲はたれ)
小西方は関が原の戦いで西軍(豊臣方)に付いた小西行長のことと思われる。実際には西軍は敵に対して左右に長く広げた鶴翼の陣を敷いたと言われている。箕手も27宿の一つ箕宿の星の形による陣形で、左右に長く広げて敵を取り囲むような陣形を言う。
卯の刻は夜明けの時刻で、関が原の戦いは夜明けとともに始まったとされている。
内藏頭は元は官職の名だったが、内蔵助などと同様、後に普通に人名として使われるようになった。『七部集大鏡』(月院社何丸著、文政六年刊)には小西行長の家臣に小堀内藏頭がいたというが、グーグルで検索したけどこの名前は見つからなかった。特定の誰かを指すのではなく、ただありそうな名前というだけのことだろう。
無季。ちなみに関が原の戦いは旧暦九月十五日で秋。
十二句目
卯の刻の簔手に並ぶ小西方
すみきる松のしづかなりけり 素男
(卯の刻の簔手に並ぶ小西方すみきる松のしづかなりけり)
これは遣り句と見ていいだろう。合戦の場面に朝の景色を付けている。強いて言えば、合戦で多くの人が命を散らせてゆくのに対し、松の木は長年にわたって静かにそれを見守っているという対比が読み取れる。
無季。「松」は植物、木類。「稲」から三句隔てている。
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